更新不能

帰省中であることと、朝から色々と大変な作業をしていたため、すでに体力の限界間近であり、握力も失われて指先がプルプルと細かく震えている状態なので雑感を書くことが困難だ。

この雑感をいつから書き始めただろう。

そして、いつまで書き続けるのだろう。

何があっても休まずに更新し続けてきたが、ついに今週は休むことになるのか。

そもそも、こうやって疲れ果てる原因となったのは母親であり、どうしてこんなことになってしまったのかを考えると腹立たしさすら覚えてしまう。

いや、もっとさかのぼって考えれば老いた母を一人にしている自分が悪いので怒っても文句を言っても仕方ないことではあるのだが・・・。

今回のことに関しては、ゆっくりと来週の雑感にでも記すとするか。

とにかく、今まで更新し続けてきた雑感が途絶えてしまうのが問題・・・。

いや、こうやって書き綴っているのがすでに雑感なのかもしれない。

そうだ、そういうことにしてしまえば良いのである。

虚栄

ここ数日の話題になっている 『アイス・バケツ・チャレンジ(氷水バケツ)』 は、自然発生的にネットの世界で広まった、難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)の患者支援と認知度向上のため、ソーシャル・メディア(SNS)上で指名された人が 『寄付をするか頭から氷水をかぶるか』 を選んで実行するキャンペーンだ。

フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグ氏、マイクロソフト元会長のビル・ゲイツ氏、ケネディ一族 20名以上やブッシュ元大統領など、そうそうたる面々が次々に動画を公開し、同時に寄付も行っている。

その映像から他意を感じることはないが、日本の経営者や著名人、政治家の映像は見ていて腹立たしいものが多いのはなぜなのか。

素直に見ることができるのは歌手の浜崎あゆみ氏、サッカー選手の香川真司氏、野球選手の田中将大氏くらいなもので、みんなの党代表の浅尾慶一郎氏、楽天の三木谷氏とその面々、ソフトバンクの孫正義氏らが報道陣のカメラに囲まれて氷水をかぶっているのを見ると虫酸が走る。

こういうものは少数のスタッフ、または友人などに撮影をたのみ、こっそり動画をアップするのがオシャレなのであって、
「今から話題になっている氷水バケツやっちゃいま~す」
的なノリでテレビ局や報道陣を集め、ニコニコしながらカメラ目線でやるものではないだろうし、そんなことをされても心には一切響いてこない。

3年前に発生した東日本大震災の時もそうだった。

台湾からの義援金が 200億円を超えたことが伝えられた時、同じ中国系でありながら反日感情をあらわにする本土とは異なり、親日家が多いお国柄とその善意に心から感謝したものだが、なんとその直後にソフトバンクの孫正義氏は個人のポケットマネーで100億円寄付すると発表したのである。

台湾の人たちがみんなでお金を出し合い、200億円を送ってくれた直後に発表することだろうか。

まして、孫氏の発表は 『寄付した』 ではなく、これから 『寄付する』 という内容であり、実際には 10億とか数億単位に分割されたものが翌2012年までに寄付された。

もちろん寄付したことに変わりはないし、その行為自体は褒められることであろうが、なぜあの時期に、まだ寄付してもいないのに、金額だけをマスコミに大々的に発表する必要があったのかという疑問が浮かぶ。

東日本大震災では多くの芸能人、著名人が寄付をしたが、大物になればなるほど大々的な公表は避け、後になって判明するケースが多かった。

その名前や支援方法などについては、こちらのブログに詳しくまとめられているが、ここに名はなくとも匿名で寄付した人も多いはずだ。

事実、黒柳徹子氏の名前が挙げられていないが、何かの番組で寄付したことを本人が認めていたし、ビートたけし氏も記されているように所ジョージ氏と 2人で 1000万ではなく、匿名でもっと寄付していると何かで聞いたことがある。

きっと高倉健氏だって吉永小百合氏だって歌舞伎界の大物や落語会の大物、大相撲の力士だって寄付しているに違いないし、中堅や若手のお笑い芸人にもひそかに寄付したり支援活動をしている人はいるだろう。

それを偉そうに公表しないのがオシャレなのである。

それを人の注目を集めてでしか実行できない人は虚栄心のかたまりであり、自己の虚栄心を満足させるための行為であるように思え、心から尊敬することができない。

もし自分にアイス・バケツ・チャレンジの指名が来たなら、心臓に難があるので氷水をかぶることはできないが、心ばかりの寄付を、こっそりとさせていただこうかと思う。

有名人から指名されるはずも、記者会見など開かれるはずもないのは分かっているが・・・。

タイミング

今年の夏はタイミング悪く、まだ 2回しか海でランチができていない。

狙いはカーっと暑く、それでいて空気がカラッと乾燥している日なのだが、それがなかなか難しく、今年はジメッとした日が多いのが困りものだ。

夏の初めの頃、少し寒い日に着られる薄手の長袖シャツがあったら良いということになって探してみたが、すでにどこも店内は夏物一色になっており、長袖など店の片隅で何枚かの売れ残りが寂しそうに吊るされているだけで、デザインの好みも違えばサイズも合わないものばかりだった。

それを教訓にすれば良いものを、学習能力に欠ける自分はそんなことをすっかり忘れており、今週になってから夏の部屋着にしている短パンを買おうと売り場を物色してみたが、店内はすでに秋一色になっていて、短パンなど店の片隅で何枚かの売れ残りが寂しそうに・・・・(以下同文) という間抜け具合全開の有り様だ。

こうなるとタイミングがどうしたということではなく、単に季節感も常識もないのが原因なのかもしれない。

それでも昨日の午後、大型スーパーの衣料品売り場とか全国チェーンの衣料品店ではなく、昔ながらの商店街にある町の洋服屋さんに行ってみたところ、まだまだ夏物の処分セールは続いていた。

その店はベビー服からスポーツ衣料、下着からパジャマ、雨具や腹巻きまでなんでも売っているが、客の年齢層が高いのでベビー服や子供服は祖父母が孫のために購入することが多いのだと思われる。

しかし、そんな庶民的で地域に密着した店であるからこそ、まだ気温が高くて暑い日が続けば夏物の服だって水着だって売っているのだろう。

夜になっても暑い日は発泡酒を飲んでノドを潤し、ぷは~っ!と一日の疲れを吹き飛ばそうと思って 6缶セットを夏の初めに 2つ購入しておいたのだが、なかなかそれを飲む機会がない。

平日は酒を飲まないので狙うは暑い週末や休日だが、ずっと暑い日が続いているのに週末になると涼しくなる確率が高く、発泡酒の在庫をなかなか減らせずにいる。

数日前から 9月上旬並という涼しい日が続いており、すっかり夏の終わりを思わせる雰囲気を醸しているが、まだ夏が終わってくれては困るのであり、発泡酒を飲んでぷは~っ!とやりたいと切に願う。

先月の雑感に書いたブルーレイ・レコーダーの買い替えは良いタイミングだったのではないか。

今は 4K対応の機種への切り替わり時期でもあるため、旧型のものは型落ちとなって安く売られていることと、消費増税前の駆け込み需要の反動で販売が落ち込んでいるのに加えて当時の在庫がダブついている可能性が高いので、安売り傾向が続くものと思われる。

本来であれば年末商戦が始まる前、学芸会や学校祭でビデオカメラ需要の高まりに合わせた秋の商戦で一段と値下がりする可能性が高いが、我家の場合は 8月と 9月に長く家をあける事情があるため、外出先からでもネット経由で録画予約できる新しい機種を必要としたのが購入の決断となった。

それでも満足度の高い買い物ができたので、これは我が家にとってベスト・タイミングだったものと思われ、そのきっかけを与えてくれた母親に感謝しなければなるまい。

実は今月と来月の 2回、母親が手術を受けるので家を開けることになった。

手術といっても老人特有の目の病気の治療であり、命に関わるような大病ではないので本来であれば付き添いの必要もないくらいなのだが、普段の親不孝が帳消しにならないまでも、せめて少しでも埋め合わせできるのではないかと思い、2度の手術の際には実家に帰ることにしたのである。

タイミング、手術のキーワードで思うのは 2008年に 『お買い物日記』 担当者が患った大病にまつわる様々なできごとだ。

あの日あの時、アメリカに住む次兄が余命の宣告を受けなければ、北海道に帰るという決断をしなければ、何ごともなく大阪に暮らしていたなら・・・、きっと 『お買い物日記』 担当者は命を落としていたのではないかと思う。

次兄にあんなことがあり、自分が持病の通院先を変える必要があり、その病院が家の近くであったこともあって、嫌がる 『お買い物日記』 担当者を無理にでも病院に行かせることができ、それが早期発見につながった。

あのまま大阪で過ごしていたなら、自分も強硬に病院行きを勧めず本人の意志に任せていただろうし、日々何かに追われているような切羽詰まった感覚の生活の中では体調を気遣う心の余裕もなかったことだろう。

そういう意味においては、北海道に帰ってくるのはあのタイミングしかなかっただろうし、そのきっかけは次兄を端緒とする様々な事情からだ。

今があるのはすべて次兄が与えてくれたタイミングによる結果だと心から感謝しつつ時は過ぎ、今年で 7度目の夏が、お盆が終わろうとしている。

血筋

血は争えないものである。

そう、子どもが父母から気質・性向を受け継いでいることは否定しようがない。

それはとなりの店の一家を見ていても良く分かる。

お父さんは片付けが得意ではないらしく、外出から帰ってきて家の前に自転車を置いたまま放ったらかしにし、雨ざらしになったり放置したまま次の日の朝を迎えることも珍しくなかった。

その自転車を新しくしてからは少し気を使うようになったようだが、それでも鍵をかけずに放置しておき、それに気づいたお兄ちゃんが鍵をしている姿も度々目に入る。

そのお兄ちゃんはお母さんの血を引いたのか、定期的に洗車をするし、物置から出したものは使い終わるとすぐに片付けるようだ。

たまに裏庭で一家揃ってバーベキューなどしているが、食べ終わって後片付けをするのもお兄ちゃんが率先してやっている。

お父さんの血をモロに引いているのは妹ちゃんだ。

自室の窓に洗濯物を下げることがあるのだが、それはどう考えても乾いているはずなのに取り込まれることはない。

何日でも、ともすれば一週間でも二週間でも窓際にかかりっぱなしで、なくなる時は妹ちゃんがそれを着た時だと思われる。

そして、残念なことに、父 → 娘の血は、確実にマユちゃんも受け継いでいるようだ。

部屋の窓に洗濯物を干したりはしていないし、あんなにしっかりしているマユちゃんではあるものの、帰省していて札幌に帰る際、自室の窓を開けたまま行ってしまったことがあり、その後に降りだした雨で我が家が窓を閉めようとしたところ、強風に揺れるマユちゃんの部屋のカーテンに気づき、慌てて妹ちゃんに教えに走ったことがある。

それ以外の細かなことでも、しっかりしているようで、どこか抜けているようで、それを見ていると 「ああ親子なんだなぁ」 とつくづく思う。

また、自動車運転に関しても見事に血筋が出るようで、お父さん、お兄ちゃんの場合はドアを閉めてからニ、三拍おいて発車するが、妹ちゃんとマユちゃんだと一拍もおかずに発車する。

そして、アクセルの踏み込み具合までそっくりなので、エンジン音を聞いただけでは誰が出かけたのか区別できない。

運転免許を取得した直後は運転の練習のため、毎晩のように母娘が二人揃ってドライブに行っていたので運転の仕方が似るのは当然のことかも知れないが、それにしても完コピしたかのように同じなのは運転のクセがそっくりなのであり、それは血のなせる技なのではないかと思う。

以前の雑感にも書いたように、マユちゃんの天性の明るさや人懐っこさ、愛想の良さは客商売をしてきた親子の血であろうし、本人は気にしてダイエットしているようだが、そんなことを気にする必要などないくらい体の線が細いのも祖母 → 母 → 娘と継いだ血筋だと思われる。

お買い物日記』 担当者の血筋に関しては以前の雑感に何度も書いたが、二人の兄と誰がどう見てもきょうだいに間違いないと言うほど顔が似ているし、ちょっとした仕草や表情もそっくりだ。

そして極めつけは寝姿で、暖かい時は三人とも手を上げて、バンザイ姿勢で寝る。

残念ながら次兄は若くして亡くなってしまったが、生きていて、そして近くに住んでいたならまだまだ似ているところが見つかったことだろう。

自分は父の血を確実に継承しているという自覚がある。

母は下戸で父は大酒飲み。

その酒がたたって命を落としたようなものだから、それを反面教師として深酒も毎日の飲酒もしないように心がけてはいるが、その気になれば自分でもビックリするほど飲むことができる。

かなり飲んでも、どれだけ飲んでも記憶をなくしたことはないし、酔いつぶれて他人に迷惑をかけたこともなく、吐くまで飲んだことも数えるほどしかないと思う。

相当量を飲めば酔いもまわり、声が大きくなったり陽気になったりするが、それすらも滅多になく、最初から最後まで変わることなく淡々と飲んでいる。

同じ飲むならポリフェノールを摂取できる赤ワインが良いのではないかと 『お買い物日記』 担当者が言うので試してみたところ、いくら飲んでも酔わないのでボトル一本を空けてしまい、仕方がないのでその後で焼酎を飲み直したこともあったくらいだ。

アルコールに強いのはまさに父親の血であろう。

そしてもうひとつ自覚しているのは骨格だ。

とくに足などはそっくりだと思っており、自分の足のすねを見ると父親を思い出すほどである。

父が亡くなって間もない頃、冬に帰省して家の周りを除雪したことがあるのだが、父が使っていた防寒着を身にまとっていたこともあってか、近所に住む人は父が生き返ったのか、幽霊でも見ているのかと腰を抜かさんばかりに驚いたと聞く。

身長もほぼ同じ、骨格もそっくりなので幽霊と勘違いされても仕方がないくらい周りから見ると似ていたものと思われる。

そんなこんなで、心からつくづく思う。

本当に血は争えないものである。

肩書き

日本ほど肩書きを重視する国はないだろう。

まずは学歴に始まり、どれだけ有名な会社で働いているか、そしてその役職がどうであるかを誇ったとしても何にもならないとは思うのだが、それを自慢気に披露する人がいるかと思えば、多くの日本人はその経歴を聞いただけで圧倒されたり、その人を無条件で高評価してしまうところがあるようだ。

どんなに有名校を卒業していても、たとえそれが日本最高学府と言われる東京大学であってもアホはアホであるし、勉強ができるからといって仕事ができたりリーダーの資質があったりする訳ではない。

過去の知り合いで、誰もが知っている大学を卒業しながら社会に適合できず、変わり者のレッテルを貼られてまともに就職できない人や、人付き合いが苦手で孤立しがちな人が何人かいた。

以前の雑感にも書いたことがあるが、80年代の終わりにバブルが弾けて日本経済に未曾有の危機が訪れた際、各企業はリストラの名の下に大規模な人員削減、希望退職者を募り、多くの失業者が世の中に溢れ出たが、再就職を目指す面接で
「あなたは何ができますか」
という問いに対して
「部長ができます」
などと答える人がいたなどという笑うに笑えないエピソードがあった。

今でこそキャリア・アップだのスキル・アップだのと言われ、専門性を身につけたりすることを目指す人も多くなったが、単なる肩書きに満足し、それだけを目指していた人の末路は哀れだったというのに今でも日本社会には肩書きへの固執、執着が多いのは何故なのだろう。

芸能人、それ以外にテレビ出演する文化人を見ていても同じことを思う。

歌う訳でもなく、芝居をする訳でもなく、単にテレビに出ている人はタレントと呼ばれるし、一時期は露出の多かったグラビアアイドル、モデルもそのままの肩書きで呼ばれるが、ろくなレッスンも受けず勢いだけで CDの一枚も発売すれば、とたんに肩書きは歌手となる。

そしてドラマや映画に出演すれば、女優や俳優という肩書きに変わってテレビでもそのように紹介されるようになり、本人もそれを照れくさく思ったりしていないようだし、どんなに大根な演技をしていようと恥じらうことなく、むしろ誇らしげな表情で紹介を受けているところをみると、芸能人における肩書きの最高ランクは女優、俳優らしい。

その肩書きを手にすることは、たとえ身の丈を超えていたとしても臆することなく受け入れたい名誉だったりするのだろう。

文化人と呼ばれる人たちの場合も医者、弁護士などの専門職を除けば出世魚のように肩書きが変わっていく場合がある。

その多くは物書きの人たちだが、最初はエッセイスト、コラムニストと紹介されていた人たちが、その作品が話題にならなくても、何の賞ももらえなくても、例え売れなくても小説さえ書いて出版すれば、その瞬間に肩書きは小説家となり、本人もそれを甘受しているようだ。

芸能人における肩書きの最高峰が女優、俳優だとすれば、物書きにとっては小説家と呼ばれるのが最高峰なのだろう。

ビジネスパーソンにとっての頂点は社長なのかもしれないが、今は規制緩和によって株式会社の設立に 1,000万円も必要なく、1円でも良いのだから社長など会社登記すれば誰でもなれるではないか。

事実、自分も会社を作っているので肩書き上は社長ということになる。

しかし、社長などと言ってほしくないし呼ばれたくもない。

昔は CGデザイナーなどという呼び名に憧れもしたが、今はそんな呼ばれ方よりドット絵師など職人的な呼ばれ方が嬉しいし、Webページ制作を主な生業としているので、Webデザイナーとかクリエイターなどと呼ばれることを好む人も多いだろうが、ここはやはり Web職人とか、デジタル編集人などと呼ばれたいと思う。

チャラチャラした肩書きや、偉そうな肩書きよりも、聞いただけで何をする人なのかが分かり、その道のプロフェッショナルと思ってもらえるような肩書きがほしい。

そして、できればそれを自分から名乗るのではなく、周りから言ってもらえるようになりたいし、そうなってこそ本物だと思う。

目指すのがそこなので、経営者として成功できなかったりするのかも知れないが・・・。