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雑感何となく感じたこと雑感何となく感じたこと

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2006年 8月

欲求と不満 欲求と不満

  給湯器や浴室乾燥機の事故が続いている。 電気業界が打ち出すオール電化とガス業界のオールガスが熱い戦いを繰り広げているが、今回のトラブルはガス業界にとってイメージダウンとなり、電気業界に絶好のチャンスを与える結果となってしまった。 今後はオール電化住宅へのシフトが加速度的に増えていくことだろう。

  自分としては、オール電化にしてしまうことに若干の不安を感じる。 仮に災害が起こってライフラインに障害が発生した場合、電気とガスを使用してれば、どちらかが止まっても一方さえ供給されていれば何とかなりそうな気がするが、オール電化にしていたら電気の供給が止まると何もできなくなる。 そういう事態を想定した場合、やはり双方の器具があった方が良いような気がする。

  そのためにもガス器具には、より厳格な安全基準を設けていただきたい。 少し前にあったシンドラー社製のエレベータにしてもパロマ社製の給湯器にしても、今回の件にしてもあってはならないことではあるが、「人間はどこまで貪欲なのか」 と感じてしまったりもする。

  上の階へは階段で上がれば良いものを、楽をしようとしてエレベータが作られる。 お湯などは瞬間的に沸かなくても良さそうなものだし、浴室を乾燥させる必要が本当にあるのだろうか。 確かに高層階まで階段を上るのは疲れる。 給湯器を使えばヤカンで湯を沸かす時間を節約できる。 しかし、便利になった分だけ危険を伴なうリスクを覚悟しなければならないのかもしれない。

  自動車も運転手をサポートする機能が次々に追加された分だけ電子制御されている部分が増えて機能も機構も複雑化する一方だ。 その分だけ欠陥が増えてリコールの対象も広がる。 家電も同様に高機能化が進んだ結果、想定外の操作をしてトラブルを招く結果となっている場合が多い。

  ここ数日マスコミを賑わせているシュレッダーも同様だ。 機能こそ単純なものではあるが、使用する側の欲求に応じて改良を加えた結果、社会問題になるほどの事故を引き起こすことになってしまった。 最初の頃は紙の挿入口も指が入るほど広くはなかったし、指を切断するほどモーターが強力ではなかった。 昔のものは 2-3枚の紙を入れるとすぐに止まっていたものだ。

  しかし、使う側はそれに対して文句を言う。 それならばと、10枚でも 20枚でも裁断できるようにモーターを強力にし、まとまった枚数の紙を入れやすいように挿入口も広くなる。 この事故が起こるまではユーザもそれを受け入れ、便利に使っていたはずだ。 ユーザーの欲求に対してメーカーが応えた結果、みんなが満足して使えるものができあがった訳だ。

  2005年 4月 25日に発生した JR福知山線脱線事故も JRばかりを非難できるのか疑問である。 3/23 の独り言にも書いたように、時間にゆとりを持たずに出勤し、たかが 1-2分の電車の遅れに対して鬼のような形相で駅員さんを怒鳴り散らす馬鹿がいる。 過密ダイヤが問題視されていたが、短い間隔で電車が来てくれるから遅刻しなくて済んでいた人も大勢いるはずだ。

  確かに私鉄との競争で JR が過密ダイヤにした面もあるが、ユーザー側の欲求も、「もっと速く」 「もっと本数を多く」 という点で一致していたはずである。 そして、あの大きな事故がある以前はそのサービスを享受し、わざわざ私鉄ではなく JR を選択していた人も多いはずである。

  JR にせよシュレッダーやその他の件にせよ、被害に遭われた方は本当にお気の毒としか言いようがないし、全ての製品開発、サービスには安全第一で取組んでいただきたいが、欲求にどこまで応えるか、安全を考慮した場合のギリギリの落としどころを見極めるのはかなり難しい。

  そして、このようなことが起こった際にメーカーやサービス提供者を一方的に責めるのではなく、楽をしすぎている自分たちの行動や欲求を反省することも必要なのかも知れない。

2006 / 08 / 26 (土) ¦ 固定リンク

不思議体験 不思議体験

  8/13日は、『独り言』 にも書いたように不思議な体験をした。 我家が雨の境界線にあり、こちら側は大粒の雨、目の前は道路も家の屋根も乾いたままだったのである。 その時に思い出したのだが、中学二年生の頃に同様の経験をしたことがある。 それは今回よりも格段に幻想的な世界に身を置き、あまりの美しさに呆然としたほどだった。

  夏の終わりに校内のマラソン大会があった。 過去の雑感に何度も書いているように、当時は不良をしていたので本来であれば真面目に参加するはずがない。 普段はスポーツなどしていないので長距離など走れるはずもない。 それでもその日に限って参加したのは、それから不思議な光景に出会うことを予感していたのだろうか。

  スタートラインに立ち、ボ〜ッと空を眺めると西の空に黒い雲が見える。 (こりゃぁ雨が降るな〜) などと考えていると、スタートの合図が鳴った。 マラソン経験のない者が唯一とれる作戦で、ペース配分などまったく無視して体力の続く限りガムシャラに走った。 短距離は得意だったので、もの凄い勢いで飛ばしまくった。 しかし、全力疾走できるのは数百メートルが限界である。

  すぐに息が切れて足が止まる。 するとすぐに普段から走りこんでいるバスケット部だのバレー部だのの奴らに追い越された。 それでも最初のダッシュが効いたのか、後続の奴らが追いついてくる気配がない。 とりあえず、走れるところまで走ってみる気になり、すでに小さくなりかけている先頭集団の背中を追った。

  3km ほど走っただろうか。 先頭集団の背中など肉眼で見えなくなってしまい、コースの具合で後続の姿も見えない。 大きな川の堤防を一人でトボトボと走っていた。 すると、にわかに空が暗くなり、大粒の雨が顔をぬらす。 ところが、堤防の右端は地面が乾いたままだ。 不思議に思いながらもそちらに寄ってみると、確かに雨は降っていない。

  そして、足元を見ていた目をコースの先に向けると、ずっと先まで雨のカーテンができている。 まるで天から降りる滝のような、オーロラのような白くてユラユラした雨のカーテンが何百メートルにも渡って揺らめいているのである。 あまりの美しさに息をのみ、そのまま立ちすくんでしまった。

  何分くらい見ていただろう。 長く感じただけで、実際には数十秒だったのかもしれない。 その幻想的世界は急にバランスを崩し、ドザザーッ!という雨が頭の上から降ってきた。 雲の動きか形が変わり、立っている場所が境界ではなくなってしまったのだろう。 そして、後続の奴らが次々に自分を追い越して行く。

  自分も慌てて走り出し、隣を走っている奴に 「今の見たか?」 と聞くと 「そんなことがあるはずがなかろう」 と相手にしてくれない。 誰に 「雨のカーテン見たか?」 と聞いても 「うるさい」 とか 「バ〜カ」 とか言われ、まともに話を聞いてもらえなかった。

  結局、そのマラソンでの順位は中の下といったところで平凡な結果に終わった。 友人からは 「あんなに張りきってダッシュしたくせに」 と馬鹿にされる。 必死になって 「違う!途中で雨の境界線に立ってな。それがスゲー綺麗でな。」 と説明するのだが、「遅かったことを訳の分からん話でごまかすな」 と叱られてしまった。

  誰に何と言われようと、天から舞い降りる光のカーテンを見たのである。 それは長いこと誰にも信用してもらえなかった。 しかし、先日の経験から 『お買物日記』 担当者だけは信じてくれるに違いない。

2006 / 08 / 19 (土) ¦ 固定リンク

マサルノコト scene 7 マサルノコト scene 7

  『マサルノコト scene 5』 に 「自分からマサルが暮らす街に行ったことなどない」 と書いたが、実は一度だけ行ったことがある。 それは、わざわざマサルを訪ねに行った訳ではなく、ついでに立ち寄っただけだ。 過去の雑感に何度か書いているように、出不精となった今では信じられないほど車に乗って遠くまで出かけたりしている時期だった。

  その前日から仲間 6人と 2台の車に分乗し、行き先も決めず、当てのない旅をしていた。 夜がふけて夜中になっても走り続け、気が付くと住んでいた町から 400km 以上も離れたマサルの住む街にたどり着いていた訳だ。 その街は 7/22 の雑感に書いた祖父母が暮らしていた街でもある。 自分には土地勘があるので仲間に市内を案内し、祖父母が住んでいた場所も見に行った。

  そして、そこはマサルの住む街であることも思い出し、すでに仲間内では有名人だったマサルの家を訪ねてみることで意見の一致をみたのである。 しかし、具体的にどこに住んでいるのか分からなかったので、当時は各所に点在していた電話ボックスに入り、マサルの住所を探ろうとしたが、電話帳には記載されていなかった。

  そこで悪い頭をフル回転させて年賀状に書かれていた住所を思い出そうと必死になった。 おぼろげながら浮かんできたのは 『〇〇町』 という市内の地名だ。 とりあえずはその町名の場所まで移動し、あとはヒマにまかせての捜索活動だ。 『マサルノコト scene 2』 に書いた状況から、幹線道路まで徒歩数分の距離であること。 そして、その時の会話から自分が知っている場所からもアパートが近いことは推測できる。

  マサルが乗っている車の種類や色も分かっているので、ある場所に的を絞って車の捜索を開始した。 30分ほど探しただろうか、マサルの物と思わしき車を発見し、郵便受けを確認すると 2階の部屋にマサルの名前を見つけた。 別行動していたもう一台の車に乗った仲間を呼び寄せ、合計 7人でソロリソロリと階段を上る。 その日は日曜日、時間は午前 7時。 外出しているはずがない。

  ドアを数回ノックしたが、マサルは現れない。 強く、そして長くドアをノックし続けると、寝ぼけた目をしたマサルが顔を出した。 「ど、どうした?」 と驚いているマサルを無視し、狭いアパートの中に合計 7人が次から次へと乱入する。 部屋に入るなり、「腹が減った」 と食卓に置いてあったパンを貪り喰い、「のどが渇いた」 と冷蔵庫の中のものをゴクゴク飲む。

  マサルは呆気にとられて部屋の中央に立ちすくんだままだ。 まるで立場が入れ替わったように 「まぁ座れ」 とマサルをイスに座らせ、部屋の中を物色する。 オーディオ関係の棚の中に聴きたかった CD を発見したので 「これ借りていくぞ」 と何枚か取り出したりしていた。 そして、今が旅の途中であること、夜通し走っていたので休憩を兼ねて訪ねてきたことなどを話し、小一時間くらいでアパートを出て、状況を完全には把握できず、まだボ〜ッとしているマサルを残して街を後にした。

  その夜、マサルから電話があり、「何か俺、変な夢を見たんだけどよ〜」 と言い、「朝早くにお前が来てな〜」 と今朝の出来事を淡々と話し始めた。 「そうか〜悪い夢を見たな〜」 などと適当な相槌をしていると 「ふざけるなー!」 と急に怒り出し、「せっかくの休みだったのに早起きさせられた」 とか 「人の寝込みを襲うとは何ごとぞ」 などと文句を言う。 少し話を聞いていたが、最終的には 「うるさい!」 と言って電話を切ってやった。

  そしてその後、外で車の止まる音が聞こえるたびに、悪夢の再来かと怯える日々が続いたマサルなのであった。

2006 / 08 / 12 (土) ¦ 固定リンク

正義の味方 正義の味方

  8/2 に行われた 『亀田興毅 vs. ファン・ランダエタ』 のボクシングの判定結果に関し、今日になっても喧々諤々の議論が交わされているが、8/3 の独り言に書いたように、判定結果に関することが亀田バッシングにまで発展するのは間違っていると思う。 日本人はいつもそうだが、ヒステリックに反応しすぎるのは考えものだ。

  豪快で胸がすくような KO シーンが見られなかったことに対するストレスやフラストレーションのはけ口として文句を言っているとしか思えない。 判定に大きな疑問や作為的なものを感じるのであれば、それは亀田氏に対するバッシングではなく、誰が判定をねじ曲げたのかを追及すべきだろう。

  ボクシング協会が何が何でも時代のヒーローを作り、ボクシング人気を高めたくて裏工作をしたのであれば問題だ。 どうしても亀田氏に勝ってほしかった TBS が手を回した場合も同様だ。 裏の世界で行われていたであろうバクチの胴元が、ランダエタ氏に勝たれては配当金が莫大になるので仕組んだことかも知れない。 本当に判定が作為的なものだとすれば様々な可能性がある。

  しかし、どんな場合であれ、亀田氏サイドの協栄ジムや亀田親子が何らかの工作をした ”主犯” ではないだろう。 したがって、亀田氏に対するバッシングは筋違いであり、完全に的外れな行為だ。 さらに言えば判定が本当に怪しいのか、誰の目から見てもランダエタ氏が勝っていたのか正確な検証はできていないだろう。

  試合前日まで、あれだけ亀田氏を持ち上げていたマスコミが、こぞって批判する側に回っているのにも腹が立つ。 正義の名のもとに、誰に対してでもデリカシーのない質問をする記者やレポーターはマシンガンで蜂の巣にしてやりたくなる。 もっと節度を持った行動ができないものであろうか。

  過去の雑感でも、たまに偉そうなことを書いているが、実際に自分がその立場になったら正しい行動をする自信がない。 ヒットラーやスターリン、北の将軍様のように独裁的権力を手にした場合、私欲を棄てて国民のことを最優先に思う自信がない。 新興宗教の教祖になった場合、私利私欲を棄てて慈愛に満ちた活動をする自信がない。

  たとえば自分が M78星雲からやってきたとして、ウルトラマンに変身できると仮定した場合、その力を地球平和のためだけに使う自信がない。 地球上の何よりも強いのであれば、自分の性格からいって地球征服を目論む可能性が高い。「みつぎ物を持ってこなきゃ怪獣なんか倒してやらないもんね」 などと傲慢な態度をとり、大きな名声や富を得ようとすることだろう。

  しばらく怪獣が現れなければ変身して巨大化し、ビルや石油コンビナートを破壊して暴れまわり、「大人しくして欲しければ自分に服従せよ」 と言い出すかもしれない。 少しでも気に入らない国があれば、その首都を破壊しに向うことだろう。 つまりは、かつてのローマ帝国やソ連がやってきたことや、現在のアメリカや北朝鮮がやっていることや、将来のロシアや中国が行うであろう行為と大差がない。

  正義のためと言い換えてはいるが、結局は国益のため、自国の都合だけが行動原理であり、世界平和などというのは二の次だ。 国であれ組織であれ個人であれ、自己を抑制できなくなるほどの絶対的権力を持ってはいけないのであろう。

  特に自分のような性格の持ち主は権力を手中にしない方がよろしい。 たとえ 「ほしい!」 と叫んでみたところで、誰もそんな権力を与えてくれるはずなどないのではあるが・・・。

2006 / 08 / 05 (土) ¦ 固定リンク

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