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雑感何となく感じたこと雑感何となく感じたこと

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2003年 1月

自慢話 自慢話

  自慢話が嫌いだ。他人には関係のないどうでもいいことまで自慢げに話す人がいるが、聞いていてもつまらないし、「だからどうしたんだ!」 と言いたくなってしまう。世界にも認められる大発見をしたとか、今までにない物を発明したのであれば大いに自慢してもらって結構だし、そういう話しには興味も持てる。

  しかし、特に酒の席などで聞かされる自慢話は 「あっそ」 という程度のものでしかないし、聞いていて楽しくもない。あまりにも小さなことを自慢してばかりいると 「おまえにとって、その程度のことが自慢なのか?」 と思われるのがオチなので慎んだほうがよろしいのではないかと思われる。

  知り合いに何でも自慢する男がいる。誰かが子供の話をしていると自分の子供自慢が始まり、誰かが奥さんの話をしていると女房自慢が始まる。年齢的に体力の話や中年太りの話になることもあるが、そんな時はいかに自分の体形が若い頃と変わっていないかを自慢し始める。

  本人曰く、学生時代のジーンズが今でも入るだの、太ってきたのは自己管理できていないからだのと、聞いていて耳障りなことこのうえない。そして、自慢話をするために嘘までついている。その男のことは昔から知っているが、一時期はプヨプヨに太っていた。社員旅行で行った沖縄からの帰り、寒いからと空港でジーンズを着用しようとしたとき、その ”学生時代からのジーンズ” は太ももまでしか入らなかった。

  禁煙の話になると、その男はいかに自分が禁煙に成功したかを自慢し始める。本人曰く、スムーズに禁煙することができただの、禁煙できない奴は意志が弱いだのとこれまたうるさい。そして、そこでも嘘をついている。過去にその男が禁煙に失敗したこと、その禁煙中にイライラして周りに当り散らしたことは生々しい記憶として残っているのである。

  なぜ、どうして嘘をついてまで自慢話をしたいのかさっぱり理解できない。そんな小さなことを自慢して何の得があるのだろうと不思議に思ってしまう。しかし、考えてみると自慢話が嫌いなのは自分には自慢できるものがないというコンプレックスなのかもしれない。

  人よりコレステロール値が高いだの、人より歩く速度が遅いだのと、くだらないことしか思いつかない。酒の席でする ”自慢話” も、いかに自分が人よりアホであるか、どれだけ人より劣っているかなど、笑いをとるための自虐的な内容になってしまう。そんな自分が嫌かといえばそうでもない。人より優れたものなどなくても生きていける。それだけに自慢話をする人の神経が理解できないのである。

  ただし、その気がなくても人からは自慢ととられてしまうこともあるかもしれない。この雑感で何度か海外出張のことを書いているが、「そんなに何度も海外出張と書くとエリート社員と思われるかもしれないよ」 と身内に指摘されてしまった。冷静に考えると確かにそうかもしれないとも思う。

  しか〜し!、しかしである。同じく何度も書いているように会社にとっては異端児でり、問題児であった自分は決してエリートなどではない。他部署の長であろうと他部門の長であろうと平気で喧嘩し、平気で口ごたえするようなヤツがエリート社員などであるはずがなかろう!・・・と、それこそ自慢にもならないことを声高に宣言することはないのであるが・・・。

  そんな自分にも人に自慢できることはないのかと考えたのだが、年齢の割に視力が衰えていないというのは自慢できるかもしれない。人よりも目を酷使しているにも関わらず、両目とも 1.5 なのは、自慢しても良いのではないだろうか?しかし、学生時代はろくに勉強もせず、大人になるまで温存していた結果でもあるので、あまり自慢できないかもしれない。

  そう、唯一誇れるのは・・・ 2年以上もの間、毎週この雑感を書き続けていることかもしれない。特別な理由がない限り休まずに続けていることは、ちょっとだけ胸を張って良いかもしれない。何のためにもならない文書ではあるが、これからも書き続け、もっと歳をとったら若いヤツを捕まえて自慢して聞かせる嫌われ者の爺さんになってやろうと、妙な宣言をしてみたりするのであった。

2003 / 01 / 26 (日) ¦ 固定リンク

排泄と廃棄の関係 排泄と廃棄の関係

  よもや食事をしながらこの雑感を読んでいる人はいないだろうが、今回は少々下(しも)の話になるので、万が一食事をされている場合は美味しく食べ終わって 30分くらいしてからお読みいただきたい。

  かなり以前に読んだ本に、人間の排泄行為は 『完全排出型』 と 『バランス型』 の二種類に分けられると書いてあった。『完全排出型』 は 「どうせならとことん出してしまえ」 と、排泄行為中に落書きをしたり、声を発したりするタイプなのだそうだ。落書きは自身が持っている感情やイメージを体内から外に吐き出す行為であるから、トイレに落書きする人は完全排出型に分類されるという。

  『バランス型』 は出した分だけ何かを取り込もうとするタイプで、トイレで新聞や雑誌を読んで知識を吸収しようとしたり、タバコを吸ってニコチンを摂取しようとする。よく 「お父さん、トイレに新聞もって行かないで!」 と叱られている人がいるが、これはその人の本質であるから、いくら叱ったところで止めさせるのは難しいそうである。

  知り合いにトイレでタバコを吸う人が 2-3人いるが、共通しているのは ”物を捨てられない” ということである。二度と使うことはないと思われるような物を大事に保管していたり、二度と目を通すことはないと思われるような本、書類などをいつまでも持っている。

  物がたまる一方だから自宅であれば部屋が、仕事場であれば机の周りが散らかっている。「よくそんな所で仕事ができるな〜」 と感心してしまうくらい整理整頓がなされていないのである。何年も前の FAX、今では役に立たない技術資料、インクのなくなったボールペンなどが山積みになっている。彼が机の周りで何かを探しているときは探し物ではなく ”発掘作業” と呼んでいた。

  同じくトイレでタバコを吸う別の知り合いは自宅の部屋が散らかっていた。何年も前の週刊誌やマンガ本、使いものにならなくなった乾電池、ビールの空き缶などで部屋が埋め尽くされている。「捨てろ!」 と言っても 「またいつ読みたくなるか分からない」 と雑誌類は捨てないし、空き缶は 「オブジェだ!」 と言い張る。たしかに整然と壁に並べてはあるのだが、ボロアパートゆえ、少しの振動でガラガラと崩れる。

  サンプル数は 2-3人でしかないが、これらの例からも 『バランス型』 には物が捨てられない人が多いのではないかと感じている。また、女性がトイレでタバコを吸うとか何かを読むという話を聞いたことがないので、これは男性にしか当てはまらないのかもしれない。

  自分はと言えば間違いなく 『完全排出型』 である。古いものをいつまでも保管しておくことなどない。何度かの引っ越しを経験したが、荷造りをしていると忘れていたものを発見することがある。忘れるくらい使わなかったものであれば、これから先も二度と使わないであろうと思われるので、そういう物はさっさと廃棄することにしている。

  服なども同様で、持っているのを忘れていたような服は、これから先も二度と袖を通すことなどあるとは思えないのですぐに捨てることにしている。だからと言って浪費家というわけではない。いらない物は躊躇なく捨てるが、新しいものを次から次に購入するかと言えば決してそんなことはない。お買物日記にある電動歯ブラシなどは約 10年も使ったし、10年以上も着ている服だってある。

  以前の雑感にも書いた 『お年玉を貯めてやっと買ったテレビ』 や人からの貰い物など、想い出の品や安易に捨てられないものも当然あるが、不必要になったと判断されるものは迷わずに捨てることにしている。不必要なものがなければ整理整頓など意識しなくても物が少ない分だけ片付けるのが簡単である。

  そして、もうひとつ自分が 『完全排出型』 である証拠は・・・。排泄行為中に涙がとめどなく溢れてくる。あまりにも涙がでるので、しまいには鼻水まで出てくる。「どうせならとことん出してしまえ」 と意識しているわけではないが、なぜか涙が止まらない。

  こんな変な体質の人が他にもいるのか、現在ちょっと悩んだりしている。

2003 / 01 / 19 (日) ¦ 固定リンク

必需品 必需品

  なんだか風邪気味である。年末年始にはあれだけ休養をとり、栄養補給も万全だったはずなのに 2-3日前から鼻がグズグズしている。仕事を休むほどではないが、鼻で息ができないのでボ〜っとしてしまうことが多い。三連休ということもあり、気がゆるんでしまったのだろうか。

  かなり以前に勤めていた会社で風邪が大流行したことがあった。休暇をとっている社員が多かったため、社長が怒り 「風邪で休むなんぞなっとらん!気合で治せ!」 と朝礼で発言してみんなのヒンシュクをかっていた。確かに気が張っていれば風邪をひかないようだが、ひいてしまったものは気合で治るはずもなかろう。思いやりのない発言は社員の士気にも関わるので控えた方が身のためである。

  久々に風邪気味になってしまったが、それでもずいぶんと丈夫になったものである。子供の頃は体が弱く年中と言っていいほど風邪をひいていた。おまけに喘息持ちだったものだから、いつも病院に通っていたものである。子供の頃は薬が必需品だったわけだ。

  病院通いが多く、注射ばかりされていたので両腕がアザだらけになってしまい、太ももにまで注射されていた。今でも太ももの一部がへこみ、エクボみたいになっているので相当な量の注射をされていたのだろう。喘息持ちだったため自宅にも吸入器があった。何分程度か忘れてしまったが、長い時間をかけて吸入器の前で 「ス〜ハ〜」 するのが嫌だったのを覚えている。

  夏の体育の授業でプールに入るのも風邪で休んでばかりいた。あまりにも休むことが多いので先生や同級生からは 「泳げないから休むのだろう」 と疑いの目で見られてしまった。得意というわけではないが、平泳ぎだってクロールだって実際はできるのに疑われるのはとても悔しかったが、意地になってプールに入ろうものなら鼻水はドクドクでてくるし、呼吸が苦しくなるほど咳も出てしまうのであった。

  とにかく病弱だったため両親とも大変心配したらしいが、それから数年後にガキ大将として君臨し、同級生から恐れられることになろうとは当時の親は知る由もなかったのである。近所の人たちも最初は 「元気になって・・・」 と目を細めていたようだが、あまりの蛮行に今度は目くじらを立てることになってしまった。

  「元気が一番」 と親バカをまる出しにしていた両親も、度重なる同級生の親や近所からのクレームで事の重大さに気付き 「大人しくするように」 と説教をはじめたが、自分は親に叱られたくらいでメゲル ”玉” ではなかった。一向に素行が良くならないため、業を煮やした親は 「言うことを聞けないなら出て行け!」 と、きつく叱ることになる。

  そう言われると反省するどころか 「ふん!」 と本当に家を出てしまい、親が心配するまで何時になっても帰らないという性格だったため、最後には親が根負けしてしまったらしい。外が暗くなっても帰ってこないので最終的には探しに出かけ、やっと見つけても膨れっ面をしているところを 「帰ろうね〜」 と猫なで声で説得することになってしまう。今から思えばとんでもない子供だったようである。

  今では数年に一度くらいしかひどい風邪をひかなくなったので当時から考えると本当に丈夫になったと思う。何年か前に風邪をひいた時、同じ部署に勤めていた女性社員に 「そんなとき親から 『くび巻いて寝え!』 って言われませんでした?」 と聞かれた。何を言っているのか分からず 「はぁ?」 と言うと、風邪をひいた時は首にタオルを巻いて暖かくして寝るのが一番なのだという。

  これは良いことを聞いたと早々に試してみると、これがたいそう気持ち良い。そのおかげなのか風邪も順調に回復したのだが、首にタオルを巻くのがやめられなくなってしまった。寝る時はもちろん、起きているときも室内では首にタオルを巻いている。冬場は暖かくてやめられないのももちろんなのだが、夏場も汗拭きにかかせなくなってしまった。

  そんなわけで、今となっては一年を通して首にタオルが ”必需品” になってしまっているのであった。

2003 / 01 / 12 (日) ¦ 固定リンク

無宗教 無宗教

  今年もまた新年が明けてしまった。昨年の雑感に引き続き 「また歳をとってしまう」 という感慨以外に特別な思いはない。この歳になってまで 「わーい!お正月だ〜」 とアホみたいに喜んでいる場合ではないのである。歳相応に年輪を重ね、落ち着きなども身に付けなければいけないのである。

  とは言いつつも大晦日に一年を振り返って反省するとか、元旦に一年の目標を立てるなどということもなく、ただひたすらダラダラと過ごしてしまった。食っちゃ寝、食っちゃ寝の見事な体たらくぶりである。恐ろしくて計測していないが、体重も体脂肪率もド〜ン!!と増えているに違いない。

  自分自身で今年一年の目標を定めずにいるくせに神社への初詣にだけは行ってきた。神様にお願いして何とかしてもらおうという魂胆である。普段は限りなく無宗教なくせに、こんな時だけ神様にお願いしても相手にしてもらえないかもしれないと、ちょっぴり不安に思わないこともないが今年一年のことを一生懸命にお願いしてきた。

  すぐに始まる戎祭、通称 ”えべっさん” も仕事の関係上、毎年お参りしているが、これとて年に一度である。普段から信心深くした方が良いのであろうが、こういった神社 ”系” に対して普段はどのように接していれば良いのかという知識すらない。結果的に正月、厄年などの ”ここ一番” にしか訪れることはない。

  我家では代々、死後は墓に入っているため仏教徒ということになるのだろうが、法事のとき以外は意識したことなどない。父親の命日ですら当日の、それも遅い時間になってやっと気がつくという程の不届き者なので、さぞかし上界ではブツブツと文句を言っているものと思われる。

  無宗教なのにも程があるとたまに反省してみたりもするのだが 『先祖を敬い、信心深く』 などという教育は受けてこなかったので今ひとつ身に付かずにいる。第一、仏教徒であるはずなのに三年間も通った幼稚園がカトリック系だった。『三つ子の魂百まで』 と言うが、幼少時代に与えられた思想や性格は、年をとっても変わらないものである。

  かと言って 「キリスト教信者なのか」 と問われれば決してそういうことはなく、結果的には無宗教なのであるが、「お願い!」 とか 「頼む!」 などと言う時にとっさに出るのは手のひらを合わせるよりも手を組む ”キリスト系” のポーズが多い。これも幼少の頃に身に付いてしまったものが今になっても自然に出てくるからなのだと思う。

  以前の雑感でも触れたが、人がどんな宗教を信じようが本人の自由なのは当り前だが、しつこく勧誘するのだけは止めていただきたいものである。若い頃にバイトしていた店では、営業中なのにも関わらず新興宗教の勧誘にきた親子がいた。ましてや店内にお客さんがいるにも関わらずである。

  その時は、さすがに頭にきたので 「その宗教には人に迷惑をかけてはいけないという教えはないのか」 と言って追い出したが、お客さんがいなかった場合はどうしていただろうと考えてしまう。相手は子供連れだけに 「きつく言っては申し訳ない」 とか 「追い出すのは可哀相だ」 などと思ったかもしれない。しつこい勧誘に加えて親子連れの勧誘も止めていただきたいものである。

  これからも限りなく無宗教なまま生きていくであろうから自分には関係のない話しではあるが、代々の宗教を替えるというのは簡単なことなのだろうか。仏教の場合は墓石や仏壇があり、それを子供の代、一般的には長男へと受け継がれていく。その長男が違う宗教を選択した場合はどうなってしまうのだろう。しかも ”きょうだい” に男が一人しかいなかったらどうなってしまうのだろう。

  仏教の墓に入っている先祖を新しい宗教のものに移し変える訳にもいくまいし、維持を放棄するわけにもいくまい。親戚縁者が一団となって考えを改めるように説得されたりするのかもしれない。法的に宗教の自由は認められていても自由に選択するのは 「大変なんだろ〜な〜」 と正月に似つかわしくないことを他人事のように考えたりしているのであった。

2003 / 01 / 05 (日) ¦ 固定リンク

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