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2002年10月

私的漫遊記 その三 私的漫遊記 その三

  アウトドア志向ではないので漫遊記のネタなど続くはずがないのに三回も続けてしまった。しかし漫遊記と銘打てど、内容はさっぱりそれらしくない。観光旅行などしないので、どこそこの景観が素晴らしかっただの料理が美味しかっただのという ”それらしい” 内容に至らないのが悲しいところである。

  そんなこんなで今回もそれらしくない内容になってしまうが、旅行の過程で乗り物を利用すると普段の通勤で利用するのとは違った人々にお目にかかれる。親子連れ、お年寄り、おっちゃん&おばちゃんの大群が代表的な例だがモラルの欠如もはなはだしいので腹が立つことが多い。

  いつもなら激怒して怒鳴りつけるところだが、あちらも楽しい旅行でテンションも上がっているのだから仕方ないと我慢することが多くなってしまう。それだから余計にストレスが溜まったり疲れたりしてしまう。旅行から帰ってくると疲れ果ててしまい、それから一週間は疲れが取れないという事態に至ってしまうのだ。

  かなり以前の雑感にも書いたが、通勤のときとは違って電車を待つ並び方からしてバラバラである。アナウンスで 「二列になって・・・」 と呼びかけているのに、そんことはおかまいなしで平気な顔をして一番前に並ぶものだから三列にも四列にもなっている。電車のドアが開くと我先にと突入して 「ここ、ここ!ここ開いてる!」 と仲間を呼び寄せる。

  たかが新大阪までの距離なので座る気など最初からないが、人を突き飛ばすようにしておきながら謝りもしない。そして大声で話し始める。旅行が楽しみで朝からテンションも上がりまくっているかと思いきや、話しの内容は近所の人の噂話だったり旅行とは関係がないのである。

  関空を利用したときは、そこに向かう電車の中を大声でわめきながら走り回っている ”ガキ” がいた、親は何をしているかというと夫婦でにこやかに談笑していたりする。他人に迷惑をかける我が子を叱ることもできない ”バカ親” の典型である。

  伊丹空港を利用するときに使うバスでは、満席にもなっていないのに補助イスを倒してまで群れようとするおばちゃん軍団がいた。それも真ん中の席だったので後から乗ってくる人が通れないではないか。さすがに運転手さんに注意されてスゴスゴと離れて座ったのだが、注意されなくてもそれくらいの常識は持ち合わせていただきたいものである。

  電車でもバスであっても、相変わらず携帯電話の操作音がうるさい。音などなくても操作くらいできるはずなのに、なぜピコピコ音を出さなければならないのだろう。旅行になるとそれに子供が遊ぶ携帯ゲーム機が加わる。音を出して遊んでいても親は注意しない。塾に通わせる前に一般常識を教育せよと言いたくなってしまう。

  さらにさらに最近になって加わったのがデジタルカメラ、通称デジカメである。これも操作音を消さずにピコピコと音を出しながら撮影してきた画像を見ながらあ〜でもない、こ〜でもないと話している。あまりにもうるさかったので、その ”バカップル” を睨みつけてやったらデジカメをしまって寝たふりをしてしまった。

  空港では出発の待合席で寝ているオヤジもいる。それもうたた寝をするなどと言った生やさしいものではなく、イスを 3席も占領して横になってイビキをかいて寝ている。よほど家を出るのが早かったのか、完全に熟睡モードなのである。出発が近くなってくると周りは人であふれ、座る場所がなくて立っている人もいるのに関係無しなのだ。同行者も周りを気遣うことなく話に花が咲いている。

  いよいよ搭乗時刻となっても姿を表さない一団がいると思ったら、みやげ物屋で買物をしていて遅れているらしい。旅行先でのことであれば、ある程度は理解できるが地元の人間がいったい何を時間を忘れてまで買っていたのか不思議でたまらない。

  腹の立つ奴が多いのも事実だが、思わず笑ってしまう人々も多く見かける。・・・が、このネタは次回に持ち越すことにする。という訳で、出不精なくせに書き始めた漫遊記はもう少しだけ続くのであった。

2002 / 10 / 24 (木) ¦ 固定リンク

私的漫遊記 その二 私的漫遊記 その二

  先週の旅疲れからか、だる〜い一週間を過ごしてしまった。旅といっても現代社会は交通機関が発達しており、乗り物の中では座っているだけだからそんなに疲ないはずなのに何故か疲れがド〜っと出てしまった。その疲れが一週間も残るとは完全に ”年” である。

  今は完璧なインドア派になってしまっているが、これでも若いころは休みのたびに遠出をしていた。その時の遠出は ”旅” などと呼べるものではなく ”トライアスロン” のようなものが多かった。行った先で宿泊施設に泊まることもなく、車の中で寝てはまた走り出す。

  若さに任せて無謀なことや数々の悪行もはたらいたものである。ある時、目的地も決めずにとにかく車に乗り込んで走り出した。走り出してから 「どこに行く?」 と話し合っていたのだが、なかなか決まらない。話し合うのも面倒になったので、このまま走って最初に見える標識に出ているところに行くことにした。

  ところが最初に見えたのは 120km 先の地名だった。それでも皆で決めたことなので 「行かねば、行かねばならぬ」 などと三波春夫みたいな台詞を口にしながら走りつづけた。そうしているうちに 「その街に着いたら次はどうする?」 という話になったので、その街で最初に見た標識に出ているとこに行くことにする。

  そうこうしているうちに着いた街で最初に見た標識には 80km 先の地名が書かれていた・・・。そのルールに則って走り続けたところ、出発してから二日後にやっと地元に戻ることができたのである。その走行距離は実に 800 数十キロ、車の中で仮眠をとりながらの ”旅” だったため帰ってきた時はボロボロである。

  車の中で寝るのは辛いということになり、テントを購入して出かけたこともあるが、だいたい疲れ果てるのは深夜になり、真っ暗な中でテントを張るため周りの状況がよく分かっていない。海辺の砂浜にテントを張って寝たときは妙な音で目が覚めた。潮が満ちてきてテントのすぐそばまで波が迫ってきている。「どっひゃ〜」 とあわてて飛び出し、テントを引きずって避難する始末だった。

  そしてある時は広い駐車場にテントを張って寝ていた。昼近くになって、のそのそとテントから這い出すと周りには観光バスが止まっている。バスの中から指をさされて笑われてしまった。朝早くから観光コースを回って昼食にするため止まった駐車場にテントが張ってあり、そのなかから寝グセで頭が 『ぼか〜ん』 となった男が這い出してきたのだからさぞかし面白かったことだろう。

  あの頃は相当な無茶もした。その頃の友人が乗っていた車は製造から 10年も経過している古い中古車で、今では信じられないだろうがスピード・メーターは 240km まで表示されていた。「いったいこの車は何キロまでだせるのだろう」 ということになり、直線が何キロも続く道で試したことがある。

  スタートしてから 140km までは順調に加速したのだが、それから先がなかなか上がらない。少しでもエンジンの助けになればと、車の中で体を揺すって 「ガンバレ、ガンバレ」 と励ましてみた。やっと 150km に達し、それからも少しずつ、そしてゆっくりと加速していく。

  156km、157、158・・・もう少しで 160km に達しようとするその時!車のボンネットがバ〜ンと開き、前が何も見えなくなってしまった。「おわぁ〜」 と大声を出したものの、パニックにはならなかった。パニックになるよりも運転席と助手席の二人はだまってボンネットを見つめている。『目が点になる』 とは正にあのことなのだろう。幸いに対向車も来ていなかったため、少しずつ減速して車は止まった。

  車から降りてボンネットを閉めようとしても、とてつもない風圧で開いたものは簡単に閉まらない。車の屋根に登って足でガンガン蹴ってやっと閉まったのだが、二度と開く事がなくなってしまった。その後、その車を修理に出したのか廃車にしたのか今となっては記憶がない。

  そんな無茶をしながらも翌週にはまた出かけたりしてあの頃は、体力もあり本当に若かったんだな〜と、心底実感してしまったほど疲れの取れない一週間だったのである。

2002 / 10 / 20 (日) ¦ 固定リンク

私的漫遊記 その一 私的漫遊記 その一

  63時間ほど、ホームページの更新を休んでしまった。何を隠そう旅行に行っていたので更新作業ができなかったのであった。旅行と言っても観光目的などではなく、法事だったために 『楽しむ』 とか 『満喫する』 というのが目的ではない。”お気楽” モードで行動してはいけないのである。・・・とは言っても今回は七回忌で事実上 6年も経過しているわけだから、悲しみから思い出に変わっていることもあり気の重い行事ではなかった。

  そうなると里帰りと極めて似た感じなので、”プチ旅行” 感覚である。したがって道中も ”どよ〜ん” とした雰囲気になる必要はないのだが、出発の朝の起床が 5:30だったため、半分目が閉じたまま ”どよ〜ん” とした雰囲気を振りまいていたものと思われる。周りの人には不愉快な思いをさせたのかもしれないが、眠たいものは眠たいのだ。しかし、精神的なゆとりもある ”プチ旅行” だったので、旅の途中で行きかう人々を観察することもできた。

  朝早く千里丘の駅に向かって歩いていると、すでにスーツ姿の人とすれ違う。こんなに朝早くからスーツを着て出勤する人というのは、どういう人なのだろうと思ってしまったが、起き抜けの回転の鈍い頭でいくら考えても答えなんぞは導き出されるはずもない。「う〜む」 と考えている間に駅に着いてしまった。

  6時 23分発の電車に乗るためには家を出るのが遅かったのでズンズンと必死に歩いた結果、着いた時には息も絶えだえの有様で、駅構内にどのような人がいたのかは記憶がない。遠くから電車が来るのが見えたので、あわてて改札を通り抜け、電車に転がり込んだ。

  いつもの時間帯ほどではないにせよ、かなりの人が乗っていた。時間が早いこともあって寝ている人も多かったが、朝も早よからバッチリ化粧を済ませた女性もいる。「こんな早くからキッチリと化粧をして出勤する仕事とは何ぞや?」 と考えたが、まだ頭が回らないので途中で挫折した。

  新大阪の駅からバスに乗って伊丹空港に向かったが、東三国くらいまでの記憶しかないのでパス。次に記憶が戻ったのは到着地点の 200m手前なのである。その間は熟睡していたらしく、エンジン音すら記憶に残っていない。唯一、覚えているのは ”オバチャン” の笑い声だけなのだ。人の睡眠にまで入り込んでくる ”オバチャン” のパワーは底が知れない。

  それから先の飛行機の中、目的の空港に着陸までは上述と同様に記憶がないので完全に寝入っていたのだろう。現地での行動はあまりにもプライベートすぎて、ここに書いたところで誰も理解できないのだろうから割愛することにする。

  帰りの空港では大好物の ”モスバーガー” を昼食にあてた。大阪でも食べられるものを食べなくても・・・と思われるだろうが、全国区のチェーン店であっても大きな差があるのである。マクドナルド、ロッテリアなどなど全国展開している店は多いが、地方で目にするものは大阪とは明らかに異なる。

  モスバーガーの場合、代表的なモスバーガー、モスチーズバーガーを例にとってみると、まず第一にソースの色が違う。現地で出されるものは大阪のものよりオレンジ色に近い。大阪のソースはハッシュドビーフ寄りの色をしているが、現地のソースはスパゲティのミートソースのような色なのである。

  そして何よりも違うのは野菜の量なのだ。トマトやレタスが使われているモノは大阪で注文するとメニューで見る写真はレタスはたっぷり、トマトも厚いはずなのに出てきたモノを見ると明らかに写真とは異なる。レタスは ”ヘナヘナ” になったのが 4-5枚、トマトは厚さ 5mmといったところだ。ところが現地で出てくるモノはメニューに載っている写真と同じ量のレタスやトマトが入っている。

  大阪を否定する気はないが、食い道楽の街というわりには原価を考えると ”安く” 提供するためにはコストを削減せざるを得ない現実が 「如実に現れてるのだな〜」 と実感できた、法事のだったのにも関わらず結局は ”お気楽” モードでしかなった自分を反省している ”この瞬間” なのである。

2002 / 10 / 13 (日) ¦ 固定リンク

千里丘見聞録 Chapter I 千里丘見聞録 Chapter I

  「涼しくなったな〜」 「秋だな〜」 と喜んでいたのに、この前の金曜日(10/04)は大阪市内の最高気温が 30℃に達した。慣れというのは恐ろしいもので 30℃になってもひどく暑いという感じがしない。大阪での生活を始めたころは暑さと湿気でぐったりしてしまったものだが、10年も経つと体が馴染んでしまうようだ。

  それでも真夏の暑さには耐えがたいものがあり、毎年のように苦労している。それだけに涼しくなり始めた今の季節が嬉しくてたまらない。この雑感に何度も書いているように ”行動的” の ”行” の字もない完璧なインドア派である自分だが、風が気持ちの良い季節になったなので、先々週の土曜日、散歩がてらに近所を探検してみた。

  生意気にも 『千里丘の周辺情報』 と銘打ち、店の所在を Web ページに登録しているにも関わらず、ごく近所の店ですら行ったことが少ないので憩いの広場(掲示板)で何かを尋ねられてもまともに答えることができず、掲示板の常連さんが書き込んでくれるのを息をひそめながらじ〜っと待っているような有様だ。しかし、こんなことではいけないのである。簡単な質問にくらい素早く答えなければいけないのである。

  ・・・それほどの心構えではなかったのだが、とりあえず家を出てプラプラと歩き始めた。いくらなんでも駅から極近い場所であれば何度も通っているし、どの店が何処にあるのかくらいは知っているので、イズミヤ方面に歩を進めることにした。いつもイズミヤには自転車で行くのだが、決まった道しか通らないので実際この周辺にどんな店があるのか良く分からないのである。

  まず長野東に足を踏み入れてみたところ、ボーリング場と併設されていたサンフレッシュがなくなった代わりに、果物屋さんとか魚屋さんなどができている。専門食材を扱う店が減少の一途をたどっている中で、そのような店が増えているのを見てなんだか嬉しい感じがした。大型店やスーパーに負けずに頑張ってほしいものである。

  そのあたりには飲食店も数多くあるのだが、不況が続く中でも地元にしっかりと根を下ろして商売をされているようで、1年以上前に見た時とあまり変わっていなかったように思う。水商売は入れ替わりが激しいというのに、なかなか大したものである。地元の店は常連さんに支えられてる部分が大きい反面、初めてのお客さんは入りにくいという欠点がある。この周辺はマンションが乱立して人口が増えているが新しいお客さんをどのように取り込むのかが、今後の生き残りのカギになるような気がする。

  そのまま長野東、山田市場と進んでいったのだが、このあたりを歩くのは初めてだったので地図を片手にキョロキョロしてしまい、すっかり挙動不審の怪しいオヤジとなってしまった。道行く人も変な顔をしてこちらを見ている。そのような視線に耐えながらもズンズン進んで行くと、新築のマンションやら建築中のマンションがあちらこちらに見える。ここに何百世帯も入ってくるのだから人が多くなるのも当り前である。

  そして山田南までたどり着き、長野西を経由して帰ってきた。途中で見つけた店のほどんどの名前に記憶があり、「そ〜か〜。この店はこういう外観だったのか」 と感慨深く見ることができた。想像していたとおりの店や想像と違ってオシャレな店、想像よりも大きな店、想像よりも・・・な店などなど様々だったが、実際に目で見ることができて、とても良かったと思っている。

  ちょっとした散歩のつもりだったが 1時間 30分以上も休みなく歩き続けて家に帰ると、さすがに疲れてしまった。しかし、仕事疲れなどとは違って気持ちの良い疲労感が体を包み込んでいる。その夜は美味しく酒を飲み、ぐっすりと眠ることができた。翌日に疲れが残っている事もなく、「まだ体力は衰えていないな〜」 とか 「歩くって体に良いんだな〜」 などと思っていたが、その翌日になって足が痛くなった。

  一日遅れで疲れが出るなど ”年” の証拠なのでガッカリしてしまった。・・・そして、千里丘周辺の見聞を広めたはずだったのに掲示板では相も変わらずの役立たずぶりを ”発揮” している毎日なのであった。

2002 / 10 / 06 (日) ¦ 固定リンク

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