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2002年 8月

嗚呼日本人5 嗚呼日本人5

  まだまだ続くと覚悟していた暑さも一段落したようで、ここのところ涼しい日が多くなってきた。ここで油断していると急に気温が上がってグッタリしてしまうのだろうが、失いかけていた食欲も復活しつつあるようで、なんでも美味しく食べられるようになってきた。

  ただし、問題なのは調子にのって食べ過ぎてしまうことである。三度の食事はもちろんなのだが、昼食から夕食までの間や夕食から就寝までの間にも何かを口にしたくなってしまう。もともと間食をする方ではないのだが、この季節はどうしても口が卑しくなってしまうようだ。この夏の間に 2kgほど落ちた体重も復活していくのであろうが、体形を気にする年齢でもないので自然にまかせることにしている。

  何を食べても美味しい季節にはなったものの、日本国内は相変わらず食の安全に対する信頼が崩壊したままである。雪印の食中毒事件に始まり、BSE(狂牛病)問題、鶏肉問題、無認可の添加物問題、残留農薬問題などなど挙げればきりがない。生産段階や製造段階でのトラブルだけではなく流通や小売の段階でもラベルの偽装などがあるため、何を信じて購入すればよいのか解らなくなってしまった。

  それにしても、いつから日本人はこうなってしまったのだろう。以前の雑感にも書いたとおり昔の日本社会は性善説で成り立っていたはずである。悪いことやズルイことをするはずがないという信頼関係があり、売っているものの賞味期限がごまかされているとか、産地が偽装されているなどと考えたことすらなかった。何の疑いもなく売っているものを購入し、口に入れていたのは間違いだったのだろうか。

  造ったり売ったりする側のモラルが低下しているのと同時に消費者側の考えにも変化が現れはじめた。以前であれば消費者の立場が弱く、購入した商品にトラブルがあっても泣き寝入りすることが多かったが、最近では使ってみて気に入らなければ返品したり、その商品が原因で事故が起こった場合はメーカを訴えたりしている。それは当然のことなのだが消費者が保護されるようになったのは最近のことである。

  そして、もうひとつの変化は不祥事を起したメーカの商品が一斉に撤去されることだと思う。毒性のあるものが混入していたのであれば商品撤去は当然だが、雪印や日本ハムが輸入肉を国産とごまかしていた事件のように食品の安全性とは直接的に関係のない場合でも商品は撤去される。主体となっているのが販売店ではあるが、店頭に商品が並んでいても購入しない消費者は多いと思われる。これは ”不買運動” に近いもので、以前の日本では考えられないことだった。

  アメリカとかであれば商品そのものに問題はなくてもメーカの不祥事や体質までも問題視して不買運動が起こることがある。日本では人気の衰えないメーカのひとつにスポーツ用品などを販売する NIKE(ナイキ)があるが、1997年にナイキが委託するベトナムなど東南アジアの下請工場で、強制労働、児童労働、セクハラなどの問題があることが暴露されたとたんに、アメリカでは反対キャンペーンが起きて、ナイキ製品の不買運動、訴訟問題にまで発展した。

  それに比べると日本人は 「まあまあ」 と言ってウヤムヤにしてしまうことが多かったのだが最近は様子が違う。不祥事を起す会社のものは安心して消費者に提供できないという考えから取引を中止するところが多い。今回の日本ハムの件で、身近なところでは 『ケンタッキー・フライド・チキン』 や 『牛角』 が仕入先の変更を検討しているし、学校給食からも外されそうな勢いだ。

  日本ハムが食肉流通の営業を再開できたとしても以前のような売上げは不可能だと思われる。雪印が消費者離れを食い止められずに解体に追い込まれたのと同様に日本ハムも無傷ではいられないだろう。最近になって ”顧客重視” や ”消費者重視” の目標を掲げる企業が増えてきたのは、消費者が怒るとどれだけ大変な目にあうかということが身にしみて実感した結果だと思う。

  「最近の日本人(消費者)は強くなったんだな〜」 と思う反面、不祥事を起してしまう企業を見ても 「やっぱり日本人なんだな〜」 と思ってしまう。BSEでは先進国であるイギリスでも国による買取り制度がある。そして、やはりインチキをして金を騙し取る事件も発生している。しかし、日本と決定的に違うのは事件を起すのが企業ではなく個人だということだ。

  個人の利益のために個人が犯罪を犯すのは許されない事ではあるものの、ある程度は理解することができるらしいのだが、個人には何の利益もないのに会社のために犯罪を犯す日本人をイギリスでは理解できないらしい。アメリカにしてもヨーロッパにしても個人主義であるわけだから 「そんなことをして何の得があるんだ?」 ということが先にきてしまうのだろう。

  いままでの日本は終身雇用、年功序列が前提となっており、経営者を頂点に擬似的な家族関係が形成されることが多かった。会社を守ることが生涯に渡って自分の身を守ることにも繋がった。会社(家族)を守るためなら犯罪にも手を染め、身代わりに逮捕されるのも厭わなかったのだろう。しかし、終身雇用制や年功序列が前提ではなくなってきた今、そしてこれからは会社を命がけで守ろうとする日本人は確実に減っていくことであろう。

  それが良いことなのかは別として、消費者が安心して買物をすることができるのであれば、それが一番なことであると思ったりしている。

2002 / 08 / 25 (日) ¦ 固定リンク

味覚 味覚

  暦の上では秋になったはずなのだが相も変わらず暑い日が続いている。今週も連日 35℃を超えていて、まだまだ夏の勢いは衰えそうにない。『暑さ寒さも彼岸まで』 というが、これから先も一か月ほどは暑い日が続くのかと思うと憂鬱な気分になってしまう。暑さでボ〜っとしているし、食べることが少々辛くなってきている。「食べたいものは?」 と聞かれても何も思いつかないのである。

  しかし、今年は昨年ほど食欲が落ちずに済んでいる。去年は食欲がなくなり、何度も麺類のお世話になったが、今年はそれよりも暑いのに麺類に頼らずにここまで乗り切ってこられた。確実に歳を重ね、体力も衰えてきているはずなのに、どうして今年の方が元気なのだろうと考えた結果、去年とは明らかに水分の補給量が違うことに気がついた。

  去年まではいくら汗をかいても口にする水の量はそれほど多くはなかったのだが、今年はこまめに補給している。この暑さではカップに氷を入れておいてもすぐに溶けてしまい、水もすぐにぬるくなってしまう。のどが渇いても人肌に温まった水など飲む気がしない。何度も注ぎ足すのが面倒でついつい水分の摂取を怠ってしまうというのが去年までだった。

  我家には日本茶を飲む習慣がないのでポットがない。しかし何故なのかよく解らないが水筒があったのでそれに氷と水を入れて手元に置いておくようにしたところ、少しでも喉が渇いたと思ったらすぐに飲むことができるし、常にキンキンに冷えた状態を保つことができる。必要な分量だけカップに注いで飲み干せば ”人肌” に温まってしまうこともない。おまけに冷蔵庫の開け閉めの回数も減り、節電効果も得ながら水分補給できるというまことに効率の良いシステムを確立することに成功したのである。

  そのお陰なのか、去年のような脱力感もなく ”ダラリ〜ン” とすることが少なくなった。ボ〜っとしているのは元々なので去年と変わらないが、動きたくもないという程ではない。そして食欲増進効果を期待できるカレーですら食べられなくなった去年とは違って今年は食べることができている。やはり身体から抜け出た水分は補給する必要があるようだ。

  それにしても子供のころはジュースや炭酸飲料を飲み、アイスクリームなどを食べていたはずなのに今は水が一番美味しい。コーヒーは好きなので今でも冷たくして飲んでいるが、夏の定番である麦茶などは飲まなくなってしまった。補給する水分の大半が水になってしまったのである。今でもたまにジュースを飲んだりアイスクリームを食べたりするが、結局は喉が渇いて水を飲むことになる。

  あんなに甘いものが好きだったのに ”おっさん” になってからは好んで口にすることがなくなってしまった。味覚というのは歳をとるごとに少しずつ変わっていくようである。元々から変な子供だったので好き嫌いは少ないほうだった。子供が嫌いな食べ物のベスト 10に必ずと言っていいほどランキングされるニンジン、ピーマンも平気で食べていたしネギ類もワシワシと食べていた。

  ニンジンは、むしろ好きな方で料理に使われいると喜んで食べていた。カレーを食べていると父親が自分の皿にあるニンジンまで分けてくれたので 「なんて優しい親なのだ」 と感激したものだったが、後年になって聞いたところによると父親はニンジンが嫌いだったらしい。自分が嫌いだからといって子供をおだてて食べさせるとは何事だ!と文句のひとつも言ってやりたいところだが、すでに上界の人なのでそれは叶わないのである。

  そんな好き嫌いの少ない子供ではあったが、”フキ” や ”ワラビ” などといった山菜系は好んで食べなかった。出されれば渋々ながらも口に運んではいたが、心の中では 「こんな地味な物なんか食べたくないやい!」 と毒づいたりしていたのである。食材ではなく料理としては ”ハンバーグ” だの ”オムライス” には心がときめいたが、”煮しめ” だの ”ふくめ煮” などの煮物系は出されてもそれほど嬉しくなかった。

  ところがこの歳になると煮物系がとても美味しい。子供のころは喜ばなかった料理や食べ物が今となっては大好物になってしまった。オムライスには今でもドキドキするが、洋食よりも和食を体が要求しているようだ。ピザやハンバーガー、フライドチキンも食べることは食べるのだが、和食を口にするとやっぱり安心して 「は〜っ」 とため息がでてしまう。

  最近、知り合いの方から山菜系の食べ物をいただいた。ここ何年もの間、山菜系を食していなかったのと、子供の頃の記憶があったことからそれほどの興味を示していなかったのだが、食べてみるととても美味しい。フキと竹の子、山椒が使われて上品な味付けになっている。子供であれば絶対に自分から進んで食べないであろう料理が、今となっては美味しく感じられる。

  日本人でよかったと思う反面、年寄りくさくなってしまったのかな〜と思いながらも和食を食べながら 「は〜っ」 とため息をついている今日このごろなのである。

2002 / 08 / 18 (日) ¦ 固定リンク

視野 視野

  視野(しや)は視力に関する意味と思慮、観察、知識的な意味の二通りの使われ方をする。どちらの意味においても見える範囲が広かったり狭かったりすることなわけで、日本語というのはまことに便利なものであるとつくづく感じてしまう。もう 2カ月以上も前のことだが、朝起きると片目が開かなかった。何が起こったのか判断できずにあわてて鏡を見ると左目のマブタが ”ボ〜ン” と腫れていたのである。

  それも尋常な腫れ方ではなく、幽霊のお岩さんみたくなっており、上マブタと下マブタがくっつきそうな勢いなのである。おまけにどうして腫れているのか見当もつかない。虫に刺されたのであれば痛いなり痒いなりの症状が出るはずだが、触ってみても痛くも痒くもない。感触としては耳たぶを 10倍ほど柔らかくした感じで、触っている分にはプニョプニョしていて気持ちが良い。

  しかし、そんなことをして喜んでいる場合ではないのである。こんな状態では目を開けていることもできず、一日中 PCを見つづける仕事などできるはずもない。会社には休む旨を伝えて眼科に行くことにした。以前の雑感にも書いたとおり、自分にとって誇れるものは 2.0の視力だけだったのだが、年齢のせいなのか最近になってどうも調子が良くない。夕方を過ぎると右目がぼやけてくるのである。仕事帰りに道路を歩いていても遠くの景色が二重に見えたりする。眼科に行くついでに視力の検査もしてもらうことにする。

  とても人様にお見せできるような状態ではないので、とりあえず眼帯をして出かけることにしたのだが、片目しか使えないと距離感がなくなるのに驚いてしまった。家を出るときにドアノブに手をかけようとすると指がドアに当ってツキ指しそうになるし、一階まで降りる階段がとても恐い。自転車のカギを鍵穴に入れるのも苦労した。

  そして何よりも恐かったのが、いつもならスイスイと通っていける道のりなのに感覚が違うのである。前から車が来たので避けようとしてもハンドルを切りすぎて電柱にぶつかりそうになってしまう。やっとの思いで病院にたどり着いた時には乗り物に酔ったように気分が悪くなってしまった。いつもと感覚が違うだけなのに人間の体というものは繊細なものだとひどく感心してしまったのである。

  診療してもらった結果は 『急性のアレルギー性結膜炎』 とのことだった。抗生物質の飲み薬と目薬を出してもらい、大人しくしていたら翌日には目立たないくらいまで腫れは引いたのだが、なぜ結膜炎になってしまったのか、アレルギー性とは何のアレルギーなのかも教えてもらわなかったので、自分にとって結果的には原因は謎のままである。

  ついでの視力検査の結果は両目とも 1.5で以前より一段階悪くなっていた。すくなからずガッカリもしたが 「この年齢で 1.5もありゃ充分だ!」 と自分で自分を慰めたりしている。夕方過ぎから目がぼやけてくるのは ”疲れ目” とか ”かすみ目” といった典型的な中年の症状であるわけなので 「長いこと使っていると、あちらこちらの ”部品” にもガタがくるものだ」 とそれも諦めることにした。

  もうひとつの意味である視野には個人差が大きく影響するものである。「外国旅行をして視野を広げる」 などと言うが、自分はさっぱり広がらなかった。帰国直後はそれなりの影響を受けているのであろうが、日々の暮らしを続けているうちに元に戻ってしまう。きっと元々の器が小さいので無理に広げようと思っても無理なのであろう。

  悩み事を抱えている場合は極端に視野が狭くなってしまう。麻雀や将棋、囲碁などの勝負事も人がやっているのを見ていると 「ああすれば良いのに」 とか 「こういう手もある」 とか次々に思いつくが、それと同じように悩んでいる人の話を聞くと、多くの場合は広く、客観的に見ている ”他人” の方が有効な解決策を見いだせるものである。

  「しょーもないことで悩んで・・・」 とか 「小さなことでクヨクヨするな」 とは、部外者だからこそ言えることであって、当人にとっては頭の 100%近くをその悩みが占めているわけなので当然のことながら視野も狭くなっている。一歩引いて客観的になることすら困難になっているのである。そして、これも多くの場合は時間が解決してくれるのを待つしかない。時が経てば少しずつ冷静になり、少しずつ視野も広くなって進むべき道を見つけることができる。

  人間も含めた動物にはオスとメスが存在するが、狩をするオスは周りよりも獲物に集中し、巣や子供を守るメスは襲われないように周りに気を配るものらしい。そういう点から考えた場合、男性よりも女性に悩み事を相談した方が周りのことも考慮した上で上手な解決策を与えてくれるのかもしれない。

  それと付随した話で、世の多くの夫婦が喧嘩する原因の一つとして、奥さんが生活のこととか子供のことを相談したり愚痴を言ったりした時に旦那さんがろくに返事もしないとか、上の空で話を聞いているために奥さんがヒステリーを起して・・・というパターンが多いと聞く。それも 「狩をするオスは周りよりも獲物に集中・・・」 という野生時代からの DNAが体内に組み込まれているのが原因で、TVを観ていたり新聞を読んでいるときに周りの音は耳に入らないのである。

  奥様達は 「男の悲しい性(さが)と諦めていただくわけにはいかないものであろうか」 と小さな声で問いかけてみたりするのであるが、それはいかがなものであろう。

2002 / 08 / 11 (日) ¦ 固定リンク

惑星衝突 惑星衝突

  結果的には可能性がなくなったが 7/25に NASAが発表したところによると、2019年 2月 1日に直径 2キロの小惑星が地球に衝突するかもしれないということだった。計算の誤差範囲は、数千万キロもあるらしいが、発表当初の衝突確率は 7万 5千分の 1程度とされていた。

  その確率は宝くじに当るより遥かに高いわけだから 「こりゃ大変だ!」 と皆が驚いたのだが、観測を重ねていくうちに軌道計算の誤差は小さくなっていくもので、それに従って衝突確率も縮小するのが通例となっている。実際に発表の翌日には 600万分の 1になり、30日には衝突の可能性は否定されることになった。最初の発表が 23日だったので、たった 1週間で否定されたわけだ。

  1週間で衝突しないことが解るのなら 「わざわざ発表して世間を騒がすな!」 と言いたくなるところだが、多くの人の目を宇宙に向けさせ、危機に対して意識を向けさせたことには意味があると思う。遥か昔から現在までには多くの隕石や小惑星が地球に衝突している。直径が 7キロ以上の小惑星が衝突する確率は 1,000万年に一度、直径 1.7キロ以上のものであれば 2万年に一度の確率で衝突しているらしい。

  1908年にシベリアのツングースカーに直径 60メートルの小惑星が落ちた時は空中爆発を起こし、2000平方キロが荒廃してしまった。それより以前には惑星衝突によって地球上の多くの生物が絶滅してもいる。地球にではないが、木星に彗星の破片 21個が次々に衝突したのは 1994年のことであり、決してありえない話ではなく、いつ現実になってもおかしくはないのである。

  まことに不謹慎なことではあるが、衝突するかもしれないと発表があった時に少し ”ワクワク” し、衝突が否定された時には少し ”ガッカリ” してしまった。決して 「衝突して人類が滅亡すればよい」 とか 「壊滅的な被害を及ぼせばよい」 とか思っていたわけではない。むしろ 「衝突するはずがない」 と思っていたのである。それは、確率的な問題ではなく人類の英知を結集して危機を脱することが可能なため 「衝突するはずがない」 のである。

  自分には何もできないが、小惑星に向けて核ミサイルを発射して破壊してしまうなど、様々な対処方がある。それもアメリカやロシアなどだけに頼るのではなく各国が予算を負担し、まさに地球全体がひとつとなって危機に立ち向かう。---そういう姿を見てみたいという意味で ”ワクワク” していた。今でも世界のあちらこちらで紛争があり、人間同士が傷つけあっているのは悲しいことである。

  地球全体の危機に直面することによって国や地域の争いなどが無意味になり、人類の意識がひとつになれば良いと考えていた。極端な平和主義者ではないのだが、平時には違法とされる殺人が戦争のときには何の罪にもならず、むしろ大量殺人を犯した人が英雄あつかいされるのはどうしても納得できない。

  パレスチナで多く見られる自爆テロはもっと悲しい。日本人も戦争の時に片道だけの燃料で飛行機に乗り込み敵に向かって体当たりする ”神風特攻隊” というのがあったが、あれだって自爆テロとやっていることに大差はない。自分だったら 「自爆してこい」 と言われても 「いやだ!」 と言うだろうが、洗脳され、狂信的になっている頭では判断の余地もなく自滅行為に向かっていってしまうのだろう。

  紛争の多くは人種間の争いや領土争いだったりするのだが、それも人種と言う垣根や国という垣根があるからだと思う。それらを取り除くには地球はひとつであり国境とか人種は重要な問題ではないということを認識する必要がある。そういう意味で今回の惑星衝突は問題を解決する絶好の機会だったように思う。地球に向かってくる小惑星に全人類が立ち向かい、心をひとつにすることで現在の諸問題を解決したり忘れたりすることができたかもしれない。

  偉そうなことを書いてはいるが、実際のところはそれほど深い考えもなく、ただ単に 「すっげ〜」 とか小惑星を破壊するところを見てみたいとかいう思いのほうが強かった。衝突すると言われていたのが 2/1だったので前日の 1/31には何を食べようかとか、どのように過ごそうかとかを考えてみたかった。そして、全世界の人と小惑星破壊の成功を祈りたかった。

  そしてそして、何よりも作戦が無事に成功し、世界中が喜んでお祭り騒ぎになるのを見てみたかった。日本では W杯で決勝リーグ進出を決めたときよりもスゴイ騒ぎになったに違いない。何万発という花火が夜空をこがし、数え切れないほどの紙ふぶきが大空を舞い、生産が追いつかないほどの酒が消費されたに違いない。

  そういった世紀の大イベントに参加してみたかったという不純な動機が主なのではあるが、同時に世界平和ということも考えるには充分にインパクトのあるニュースだったのであった。

2002 / 08 / 04 (日) ¦ 固定リンク

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