マサルとともに仲良くしていたノブアキが亡くなって久しい。
九月四日が命日なのでこの時期になると様々なことを思い出す。
そろそろ止め時かとは思いつつも、すでに慣例化していることと、やはり忘れたくないという思いから毎年の命日には必ず花を贈るようにしていた。
昨年、母上が他界されたと聞き、その時も今年が最後かと思いつつ、やはり今年も花を送ったところ、ノブアキの叔父に当たるかたから電話をいただき、父上も高齢となって衰弱し、今は施設で暮らしているという。
ノブアキは一人っ子、父上も母上も自宅にいないとなれば、確かにもう花を贈ることを控えたほうが良いだろう。
送ったところでノブアキの実家には受け取ってくれる人はもういない。
中学生のころは学校で毎日顔を合わせ、休み時間はいつも一緒に過ごしていたし、月に一度はノブアキとマサル、そして自分の三人が集まり、遠く岡山に引っ越してしまった友人に向けて声の便りを作成していた。
中学を卒業すると、それぞれ違う学校、学科に進んだので三人が揃うことは少なくなったが、それでも大晦日の深夜に集まって初詣に出かけ、そのまま寝ずに朝まで遊んだりしていたし、それぞれが町を出て違う場所に住んでからもお盆や年末年始で帰省すると集まって夜遅くまで酒を酌み交わしたりしたものである。
中学までは誰が誰のことを好きで、どんな音楽が好きでどんなテレビ番組を見てどんな深夜ラジオを聞き、どんな芸能人が好きで何に興味があるのかが手に取るように分かっていた。
違う学校、違う職場に進み、違う土地で暮らしても会って話せば意識は昔へと戻り、当時と同じ雰囲気のまま会話はできたが、それぞれの好みや興味が何に向いているかまでは分からない。
たとえ好きな人ができたとしても、それは話したことも見たこともない人であり、二人がお似合いなのか、その女性がノブアキやマサルにふさわしい人なのかも分からない。
昔のことはよく知っていても今に関しては何も知らない。
ノブアキが何を思い、何に苦しんで逝ってしまったのかは分からないままだし、それは永遠に知るすべがないことだろう。
あの日以来、それが悲しかったり悔しかったりしていたが、仮に明日マサルが亡くなれば、仮に自分が亡くなったとしても同じことではないかと思うようになってきた。
今日現在、マサルが誰を好きで何に興味があるのか分からない。
相変わらずプロレスや映画は好きだろうと想像はつくが、新たに何か興味を持ったのか、今は意中の人はいるのか。
もう何年もマサルと会っていないので話しをする機会もなく、まさか自分が海外ドラマにはまって日に何本も観ているとは思っていないだろうし、毎朝の散歩を何年も続けていたり、室内でドタバタ運動をして体力づくりをしているなどとは夢にも思っていないだろう。
ノブアキの最後、その時の思考や感情など計り知れないし、知らなくて当然であり、たとえ知ったところで今さら何ができる訳でもない。
最後の花を送った今年、気持ちの上でも区切りをつけようと思う。