このごろ気になることの一つとして、オバハンの語尾上げがある。 文章で表現するのは難しいが、「~ですか?」 のように、まるで質問しているみたいに語尾を上げて話すのだが、「お前は 20年前の女子大生か!」 と突っ込みたくなる。 確かに、いい歳をして語尾上げを使うのはバブル全盛期に女子大生だったオバハンが多いようだが、それから社会人を経験しても直らなかったのだろうか。
「だから~。 ○○がぁ~。 ○○でぇ~。 ○○みたいなぁ~。」 と文章を細切れにして話すオバハンも気持ちが悪い。 第一、そんな話し方をされたら句点(『。』まる) のたびにうなずいたり 「ふんふん」 と相槌をうたなければならないので疲れる。 首根っこをつかまえ、「さっさと喋らんかー!!」 と耳元で怒鳴り散らしたい気分だ。
以前は若者文化の発祥と言えば女子大生が中心だったが、今となってはその座を女子高生を中心としたコギャルに奪われてしまっているようだ。 ファッション、化粧品、食べ物の流行まで生み出すパワーを秘めるコギャルには、ある意味で敬服するものがあり、様々なメーカーまでがマーケティングの対象にしたりしている。
年末に発表される流行語大賞には芸能、文化人などが選出されているが、本当の意味での流行語を創っているのは彼女達ではなかろうか。 流行り廃れも早く、オッサンである自分などが理解できるようになるころには、コギャル達の間では死語と化していることが圧倒的だ。
10年以上も前に使われたチョベリグ(超ベリーグッド)/チョべリバ(超ベリーバッド)など、もう誰も使っていないだろうし、その後に生まれたチョバチョブ(超バッド超ブルー)も聞かなくなった。 数年前に使われていたチャケバ(ぶっちゃけ話)なども、すでに廃れているのだろう。
コギャルなどという分類そのものが存在しなかった昔から、若者言葉が生まれては消えることを繰り返していたが、変な生き残り方をしている言葉もある。 その代表例が 『ハッスル』 とか 『フィーバー』 で、今では若者も含めてオッサン、オバハンまで滅多に使う言葉ではないのに、ニュース用語としてのみ、その存在を確認することができる。
「若者のフィーバーぶりが・・・」 「大いにハッスルしていました」 など、「誰に伝えたいんだ?」 と問いたくなるようなニュース原稿を若いアナウンサーが読んでいるのが可笑しい。 原稿を作成しているのがオッサンなのか、取材をしたのがオッサンなのか、それとも本当にニュースの用語として定着しているのか、正確なところは分からないが、このまま将来も生き残る言葉なのだろうか。
その他、日本語の使い方として間違っているものがそのまま定着してしまう場合もある。 今では誰も不思議に思わない 『意外と』 もそうだ。 もともとは芸能人が使い始めたようで、意外は形容動詞であるから、『意外に』 が正しい使い方なのだが、NHK のアナウンサーだろうと新聞の文字だろうと 「意外と美味しい」 などという使い方をしているので完全に市民権を得たようである。
最近になって使われ始めたのが 「普通に美味しい」 という表現で、これは 「味が普通である」 という意味ではなく、「お世辞ではなく美味しい」 という誉め言葉に相当する。 その 『美味しい』 ですら変化しており、とっても美味しいことを 「ヤバイ」 と表現することが多くなってきたようだ。 これは 「ヤバイくらいに美味しい」 という感情表現を 「ヤバイ」 に凝縮したものだろう。
『ヤバイ』 とは 『ヤバ』 が形容動詞化した口語であり、ヤバ(野馬)とはまだ調教されていない馬、つまり危険であるということなので、本来は良い意味を持たないが、長い時を経て、今、まさに、誉め言葉へと昇華しつつある歴史的瞬間に人類は遭遇しており・・・。 などと気楽なことを書いていて良いのだろうか。 このままでは日本語がどうなってしまうのだろう。
「思ったよりも、お世辞ぬきで本当に美味しいですよ」 が 「意外と普通にヤバイ」 で通じる世の中になるのだろうか。 『意外と』 という使われ方のように市民権を得て、将来の標準語となってしまう時が来るのだろうか。 それとも、これらの使われ方は一過性のものであり、正常な状態に戻る日が来るのだろうか。
色々と思うことはあるが、昔は自分も若者言葉を使い、親に注意され、社会人となって矯正されてきたものである。 中には定着し、正式な日本語となっていくものもあるだろう。 仮に江戸時代の人が現代にタイムスリップしてきたとしたら、きっと何を言っているのか理解できないに違いない。 数十年、数百年後の日本語は、現代人には理解できないくらいに変化しているのかもしれない。