いつもは広島と長崎なのに、この時期は急にカタカナのヒロシマとナガサキになってしまう。
急に遠い土地、遠い国になってしまうような妙な感覚だ。
正直なところ、いつも考えている訳ではないし、いつも心の中にある訳でもない。
日本に原爆が投下されたその日。
その悲惨さや、その後の苦しみは想像以上のものがあるだろう。
その被爆体験はこの時期にテレビなどを通して伝えられるので急激に身近なものとなり、その破壊力や恐ろしさ、その後の土地の荒廃や人心の荒廃、長く続く後遺症など、二度と起こってはいけないことだと実感できる。
本来であれば、一度たりとも起こってはいけないことが日本の広島と長崎で起こってしまったのは、とても不幸なことであるし残念なことである。
核廃絶を唯一の被爆国である日本が世界に向けて訴えなければいけないことも理解しているし、それができるのは日本しかないことも分かってはいる。
そして、世界に向けて核廃絶を訴えるのは広島や長崎の人だけではなく、日本人全員の共通認識となるのが望ましいだろう。
しかしこの時期、広島と長崎がヒロシマとナガサキになってしまう感がどうしても否めない。
それはマスコミにも責任があるのかもしれないが、その地に住む個人の回想をいくら取り上げてもあまり意味がないように思う。
愛する人、愛する家族、大切な友達、思い出の品々を失ってしまった悲しみは良く分かる。
しかし、それは原爆ではなくても喪うものであり、それが病気であっても事故であっても火災であっても悲しみに差がある訳ではない。
原爆ではなくても、あの戦争で命を奪われた人は大勢いる。
戦争が所詮は人の殺し合いである以上、原爆がどれほどの大量殺りく兵器であったとしても仕方のないことだ。
原爆の罪は多くの民間人を殺害したことと、何年間も大地や水を汚染して多くの人に健康被害を与えたこと。
争点を整理して情報を発信しなければ相手に伝わるはずがない。
父親を喪った、子供を喪った、家族すべてを喪ったという話が前面に出て、その後に式典を見せられても、どこか冷めた思いがしてしまうのは自分だけだろうか。
誤解を恐れずに論ずれば、隣の家の法要を見ているようで、どうしても他人事になってしまう。
当人は亡き家族を思い出したりして悲しみもわいてくるだろうが、故人と深い親交でもないかぎりは隣の家で法要がいとなまれていても悲しみを共有することはない。
もっと上手に話を伝え、理解を深めなければいけないのにヒロシマやナガサキの人たちが最後に必ず使う捨て台詞。
「ここで暮らしている者にしか分からない」
「体験した者でなければ分からない」
その意識を捨てなければ。
そして内向きの話ではなく、外に向かって話しをしなければ。
原爆の何が罪なのか私心を捨てて考え、問い直さなければ日本自体が一枚岩になれないような気がする。
こんな時期にこんなことを考えてしまう自分が間違っており、心が冷たいのだろうか。