叔母は母親の二歳違いの妹、その名をレイコという。
そして、にわかには信じがたいことだが、レイコは漢字で冷子と書く。
可愛い娘に冷たい子と名づけるとは何と言う親かと思うが、実は王に令の玲子と命名したのだが、役所に届ける際に父親の字があまりに達筆すぎたのか悪筆すぎたため『冷』となってしまったという。
それにしても役所の人だって、よりによって我が子に冷子などと名づけるはずはないと常識的に考えれば分かりそうなものだが、昔の役所勤めしている人は特権意識が強く、一般市民を見下している人が多かったので、下々の者に正しい漢字を聞くのをためらったのかもしれない。
結果的に冷子と受け付けられ、冷子と受理されてしまい、その後しばらくは住民票も戸籍抄本、謄本を必要としなかったため、親としても我が娘が冷子として世に存在しているなどと夢にも思ってもいなかったのだろう。
たぶんその名が災いしたのだろうと思うが、レイコは結婚することなく生涯独身を貫くことになってしまった。
自分が子どものころからレイコは変わらず、今も昔も行動的だ。
為替が固定で 1ドル 360円もしたころに何度も海外旅行に行き、当時としては珍しい現地の食べ物や民芸品を買ってきてくれたりした。
今のように格安パック旅行もなく、ドルが高かった時代に好き勝手に旅行できたのは、結婚しておらず身軽だったこともあるだろうがレントゲン技師として病院勤めをしていたので高給取りだったのではないかと思われる。
病院で何かのライセンス取得の際に高卒の資格が必要になり、旧制度の学校しか出ていなかったレイコが通信教育で 4年をかけて高卒の資格を取得したのは 40歳を過ぎてからだ。
この街がさびれ、交通網が狭まり不便になったといって自動車の運転免許を取得しようと自動車学校に通い始めたのは、もうすぐ 60歳にならんとする頃で、仮免や卒業検定で落ちまくった結果、普通の人の倍ほどの費用をつぎ込むことになってしまった。
やっと免許を取得したレイコは中古の小さな車を買い、あちこち遠出をして楽しんでいたらしい。
最近は耳が遠くなってきたものの、まだまだ元気で洒落た衣装に身を包んでスタスタと遠くまで歩き回っているし食欲も旺盛、言語も明瞭なスーパー婆さんだ。
若い頃のレイコはとにかく行動的、活動的で理路整然とものを言い、どこかクールで簡単には人を寄せ付けない雰囲気の持ち主だった。
楽しく遊んでくれる訳ではないのに、なぜかそんなレイコのことが好きで、小さな頃はよく病院に遊びに行ったり自宅に遊びに行ったりしていたものだ。
幼稚園か小学校低学年の頃には N と M は怪しいながらも A~Z までアルファベットの読み書きはできるようになっていたし、Sunday から Saturday まで曜日を理解できるようになっていたのはレイコに教えてもらったからだ。
毛糸編みの鈎針で鎖編みするところまで教えてくれたのもレイコだし、干支の十二支を暗記させてくれたのもレイコで、ナイフとフォークの使い方を教えてくれたのもレイコだった。
そして、レントゲン技師らしく人間の骨の構造を教えてくれ、絵を描くのが好きだった自分は小学校 3年くらいの頃には頭のてっぺんから足の先までの人体骨格図をわりと正確に描けるようになっていたものである。
海外旅行ばかりしていたので世界地図を広げて行った場所を教えてくれたりしていたため、多少はいびつだったものの世界地図も小学校時代に描けるようになった。
骨や世界地図が描けるようになったからといって理科や地理の成績が良かったわけでもなく、アルファベットを早くに覚えたからといって英語が得意になったわけでもないので、教えたレイコとしては心底がっかりしたことだろう。
レイコが小学校五年生の頃から母親のショウコと姉妹で同じ街で暮らし、高度成長期の波に乗って栄え、活気にあふれて人口も増加し、町から市へとなった発展を見続け、ショウコの結婚、出産をも見守ってきた。
そして、生まれた自分の成長もずっと見てきてくれた。
共稼ぎの親が研修だの何だので家を留守にするときはレイコの家に泊まったし、子どもの頃は母親と大喧嘩するたびにリュックに荷物を詰めてレイコの家までプチ家出したりしたものだ。
そんなこんなで昔からの自分を知っているため、今でも口やかましく事あるごとに説教されたりしてしまう。
目下のところ、レイコの心配の種はショウコの体調である。
大阪に暮らしていた頃、冬道で転倒してショウコが骨折した時も電話してきて
「年寄りの骨折は怖いんだからね」
と開口一番に言い、
「このまま寝たきりになる事だってあるんだから覚悟しておきなさい」
と一気にまくし立てる。
そして、いつまでも年寄りの一人暮らしをさせておく訳にはいかないのだから大阪に呼んだらどうかと言う。
もちろん、そうしても構わないが、そうなれば今度は片田舎でレイコを一人にしてしまうことになり、子どもの頃から世話になっている自分としては心が痛む。
そこで
「一緒にこっちで暮らす?」
と聞いてみたが、
「あんたは○○家の人、私は△△家の人だから世話にはならない」
と言い張る。
その時はショウコも寝たきりにはならなかったので話は立ち消えたが、今度は北海道に帰ってきて最初の帰省の時だ。
北海道に帰ってきた年は 『お買い物日記』 担当者の大病のため帰省しなかったが、翌年には化学療法も終わったので帰省ラッシュの盆を避けて 9月になってから実家に帰った。
その際、食事の用意をしたからみんなで食べに来るようにというレイコからのお達しがあり、ショウコと自分、『お買い物日記』 担当者の三人で家に行き、それなりに楽しい食事をした後に待っていたのはレイコの説教だ。
自分に向かってではなく、ショウコに向かって
「あんただっていつまでも一人で暮らせる訳じゃないんだから」
と言いはじめ、
「あそこの施設に入るなら最低でもいくらが必要だ」
とか
「誰それさんが入っている施設は良いらしい」
などと、ショウコに聞かせるふりをして母親をどうするつもりかと自分に問い詰めている。
その時もショウコはそれほど弱っておらず、やはりショウコをこの街から連れ出せばレイコ一人になってしまうことが心に引っかかり、生返事をしながらレイコの言葉を聞き流していた。
その後も何度か同じような話があり、そのたびに話を聞き流したりしていたが、ついに今回の骨折騒ぎである。
今度は昼食の代わりに宅配ピザを頼んだなどと言いつつレイコは我が実家に乗り込んできた。
そして、登場するや否やショウコに向かって
「あんた!これから先どうするのっ!」
と説教を始め、
「もう一人で暮らすのなんか無理だからねっ」
と強い口調で迫り、
「私も一人で暮らすのが辛くなってきたから札幌に引っ越すよっ!」
と切り札のように言ってのけた。
その後、ピザが届いたので話題は途切れ、食後に世間話をしている時に、ショウコが今年は庭の改装と台所の窓の取替えをするつもりだと話すと、ショウコがまだこの家で一人で暮らす気でいることをレイコは悟ったようで、
「それじゃあ札幌行きはまだ先にするかね」
と言い残し、深いため息をつきながら帰っていった。
9人きょうだいの下から二番目であるにも関わらず、それも女手ひとつで実母の面倒を最後の最後まで看たレイコ。
姉を思う妹、老婆を心配するレイコ。
レイコの目には年老いたショウコの姿が痛々しく映っているのだろう。
・・・。
しかし、本人に自覚はないだろうが、冒頭に書いたようにレイコはショウコと二歳しか違わない超高齢者だったりするのであった。