ここのところイジメに関する問題が各地で表面化している。
2000年頃を境に減少傾向にあると見られていたが、実は学校や教育委員会が隠ぺいしただけで実数は減っていなかったのではないだろうか。
遊びの延長だったと加害者側の子供は主張しているらしいが、ものごとには限度というものがあるだろう。
自分も知らず知らずのうちにイジメに近いことをしてしまったことはある。
ただし、暴力を振るったり金品を要求したことなど一度もないし、いわゆるパシリ的に誰かに何かを買いに行かせるとか、みんなと申し合わせて無視をしたことも一度もない。
たまたま集団で遊んでいて当人が嫌な思いをしているのを知らずにいただけだ。
中学生の頃、一人が椅子に手をついて台となり、その上に何人が重なって乗ることができるか試す遊びをしていた。
もちろん台になるのは体がごつくて力もある者が選ばれるが、マサルが支えとなって体の大きな順番に乗っていくことが多い。
そして、その内の一人は体は大きくないものの骨格がしっかりしており、力もあったので下段に選ばれることが多かったのだが、本人にすればそれが嫌だったらしいのである。
マサルや自分が体が大きいのに彼の上に乗って苦しむのを見て楽しんだりしているのであればイジメだろうが、彼のほうが自分たちより上におり、辛い思いをしているなど夢にも思わなかったし、嫌なら断れば良いだけの話だったはずだ。
10人くらいで遊んでいて、記録は 7-8人といったところだったので彼が抜けても誰も文句は言わなかっただろうし、そもそも嫌がっているとは思ってもいない。
ところが彼は体が小さいのに下から 4-5人目に選ばれることを不服に思い、それが不当な扱いであってイジメられていると感じていたのだそうだ。
それを思えば本人の自覚なしにイジメてしまっているということはあるだろう。
しかし、殴る蹴るの暴行を加えたり、ゴミや動物の死骸を口に入れさせたり金を取り上げたりするのは決して遊びの延長などではない。
高いところから飛び降りて大怪我をさせるのが楽しい遊びであるはずがない。
なぜそのような陰湿な行為をする子供が増えたのか不思議でならないが、その原因を無理にでもゲームに結びつけたがる大人が現れ、したり顔で解説していることだろう。
しかし、最近は携帯電話やスマートフォンに使う時間と金が増えたので家庭用ゲーム機関連のビジネスは停滞気味であり、因をゲームとするのは無理があるし、そもそもゲームだけが問題ではないと思われる。
殺戮を目的としたゲームも暴力的なゲームも存在するのは確かだが、それを実行してしまうとすれば痛みも知らず、死とは何かを知らなすぎることが問題だろう。
幼い子供は残酷なものであり、虫を殺すことなど意に介さない。
自分もどれだけの数のアリを踏み潰したりトンボの羽をちぎったりしたか分からないし、アリの巣や蛙の口を爆竹で破壊したこともあれば、猫は本当に高いところから落ちても足から着地するのか試そうと机の上から放り投げたこともある。
しかし、少しずつ大人になっていく過程でそれがいけないことだと分かり、無残な死を遂げる虫などを可哀想に思い、死骸を見ると嫌悪感を覚えるようになってくる。
殴られたり蹴られたりすれば痛いということは何度も喧嘩をしていれば分かることだし、殴ったほうの手が痛いことも蹴った足が痛いことも覚え、どこまでが限度で、それ以上の力を加えたらどうなってしまうのかも容易に想像がつくようになる。
そういうプロセスを経て学習することも多いのだから、虫を触ってはいけない、喧嘩するなどもってのほか、野蛮な子供とは遊ばせないなどと言っていたら、まともな子供が育つとは思えない。
ガキ大将がいて取り巻きの子供がいて、仲間が誰かにやられていたら助けに行く。
仲間のピンチはガキ大将へと情報伝達され、子供なりの暴力で問題解決に当たるという小さな社会ルールができあがるのである。
昔のような環境が整わない限り、イジメを根絶するのは不可能なのではないだろうか。